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チベット問題

チベット問題とは

チベットの宗教問題(2)

寺院の破壊

文革の爪痕
デプン寺に残る文革の爪痕(2001年)
侵略を受けた後のチベットでは数多くの寺院・僧院が中国軍に破壊されました。
文化大革命の時期に侵略国の全土で宗教施設が破壊されていることから、チベットの寺院もその時に破壊されたのではと考える方もいるでしょう。しかし、チベットでは1950年代の侵略当初から寺院の破壊が行われていたのです。チベット亡命政府によると、「チベットで文化や宗教が破壊されたのは、多く1955年から1961年にかけてであり、必ずしも文化大革命(1966~1976年)の時期だけではなかった」とのことです。
破壊は、「ガンデン寺、デプン寺、サキャ寺などの古刹をはじめとして、チベット全土にあった6259の僧院・尼僧院のうち、1976年に残っていたのはわずか8カ寺」(チベット亡命政府)というすさまじいものでした。そして、仏像や宝物などは破壊されるか略奪されて売りに出され(バルコル等で売られている骨董品はそれら盗品が多いとのことである)、経典はトイレットペーパーとして使われるなど、チベット仏教に対する冒涜が行われました。

僧侶たちへの迫害

かつてのチベットにおいて僧侶たちが特権階級的な地位にあったことは事実でした。しかしそれでも、一般のチベット人にとって彼らは敬意の対象であり、自ら喜んでお布施をすべき相手でした。
しかし先述したように、中国共産党当局は彼らを階級闘争の敵と見なして弾圧を加えていきます。

獄中では「チベットの人権問題」で述べたように拷問・強制労働・タムジンが繰り返されています。僧侶・尼僧に対してはそれに加えて、人前での性交還俗など、僧侶として守るべき戒律を破る行為を強要されています。

しかしそれら以上に、彼らにとって一番耐えがたい仕打ちは、彼らのリーダーであり精神的支柱であるダライ・ラマ法王を非難し罵倒することを強要されていることでしょう。その苦痛に耐えられず、チベット仏教では認められていない自殺をする者すら出ています。

弾圧に遭った僧尼はチベット亡命政府が発表しているだけでも以下の人数に及びます。

  • ~1976年(侵略開始から文革)
      (従来の僧尼の人数・・・59万人強)
      拷問死するもの・・・11万人強
      還俗を強制されたもの・・・25万人以上
  • 1996~1998年(当局による「厳打」キャンペーン期)
      逮捕された僧尼・・・492人
      僧籍を剥奪・・・9,977人

形骸化した信仰

1979年以降、チベットで自由化の兆しが見えるようになり、破壊された一部寺院の再建が進みます。それら再建された寺院において、今では僧侶が読経・問答・儀式を行い、一般信者が巡礼・礼拝する光景が見られるようになりました。
しかし、人々は巡礼・礼拝をしたりお経を唱えたりすることを認められてはいますが、神仏と同じくらいに崇拝の対象となっているダライ・ラマ法王の写真等は当局の敵視政策のために所持が禁止されています。

※ 私が2001年にガンデン寺を訪問した時、同行した日本人が手持ちの本に掲載されているダライ・ラマ14世の写真をうっかりチベット人に見せてしまい、結果大勢の人が押し寄せてありがたがるというちょっとした騒ぎになってしまったことがありました。法王のお顔を拝することができない彼らのストレスを垣間見た思いでした。

寺院は確かに部分的に再建されました。しかし、各寺院の僧侶の人数には制限が設けられ、教義を深く追究することはなお厳しく制限されています。
長い歴史を持つ宗教は深い哲学を伴う学問であり、それは宗教家たちが不断の努力で学び、師が弟子に伝授することで初めて継承され、発展していくものです。そうしたプロセスを禁止し、お祈りや儀式だけが認められている本土におけるチベット仏教は、今や形骸化の一途を辿るばかりです。

ではなぜ、こうした中途半端な認め方がされているのでしょうか。
それは、チベット仏教の光景に憧れる外国人を招き寄せるための人寄せパンダにするために祈りや儀式を認めているということでしょう。セラ寺などで行われている問答も、客寄せのショーになるから黙認されているにすぎないのではないかとも思われます。

指導者選出への介入

「輪廻転生」は仏教全般に共通する考え方ですが、チベット仏教では特に高僧に対してその転生者を探して認定し、代々引き継いでいくという独自のシステムを有しており、ダライ・ラマやパンチェン・ラマはその代表です。
パンチェン・ラマ11世
パンチェン・ラマ11世(ニマ少年)
ところが現在では、この転生者の認定は中国側の政府への申請と認可を必要としています。即ち、チベット仏教にとっての一大事に、宗教を否定する中国共産党当局が介入しているのです。「チベット人の好き勝手に指導者を選ばせない」ということです。

その代表的な問題が、パンチェン・ラマ11世認定に関するものです。
1989年、パンチェン・ラマ10世が中国共産党によるチベット支配を公式の場で批判した5日後に謎の死を遂げます(これが原因で、戒厳令にまで発展する抗議行動がチベットで発生しました)。1995年にダライ・ラマ14世とチベット亡命政府は当時6歳のゲンドゥン・チューキ・ニマ少年をパンチェン・ラマの転生と認定し、世に公表しますが、中国共産党当局はニマ少年を拉致して別のパンチェン・ラマを認定します(現在シガツェのタシルンポ寺にいるパンチェン・ラマは後者です)。拉致された"世界最年少の政治犯"パンチェン・ラマ11世の行方・安否は今も不明のままです。


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