チベット問題

中国官製「チベットの50年」の虚構(1)

中華人民共和国(中国共産党)が自国のチベット侵略を正当化する論拠を手短にまとめたWebページに、人民画報「チベットの50年」がありました。
既に削除されてしまったページですが、ひどいものです。チベットの歴史をきちんと紐解けば、これらの文章にかなり無理があることはすぐに判ります。よくもまあ、国際社会から非難轟々の悪逆行為をここまで美辞麗句で飾り立てられるものだと、ある意味感心してしまいます。
『Internet Archive Wayback Machine』に残っていた当時のページはこちら。残念ながら写真は残っていない)

中国共産党当局の嘘と欺瞞がいかほどのものか、以下に当時の記事を記載して暴いていきましょう。


<1ページ目>

≫ 2ページ目の検証

  1. 中国は多民族統一国家である。長い歴史の中で、56の民族は祖国を開拓し、苦楽を共にする相睦まじい多民族大家族をつくりあげた。

    長い歴史の中で、チベットが中国の一部となったのは1950年代以降の数十年だけ。チベット人が開拓した「祖国」はあくまでチベット。中華人民共和国の言う「祖国」=中国を開拓したというのは当たらない。
    また、チベット人は中国に「苦を押し付けられた」ことはあっても、中国と「苦楽を共に」した歴史は無い。2008年3月の事件などを見ていると、「仲睦まじい」関係にあるとは思えない(本当なら仲睦まじくやっていくのが理想なのだけれど・・・)。

  2. 正に祖国の各民族人民との密接な社会的、文化的交流の中、チベットは13世紀に地方割拠を終え、正式に中国の版図に組み入れられ、中国領土の不可分の重要な構成部分となった。

    13世紀に中国を支配し、チベットに影響力を及ぼしていたのは元朝だけれど、元朝の対チベット施策は支配と言うよりは保護であり、更に宗教上ではチベットが寺院、元が檀家というような関係(チュ・ユン)だった。
    そもそも、元朝はモンゴルであって中国ではないのでは?

  3. 1951年、チベットは平和裏に解放された。

    中国が人民解放軍を投入して武力を盾にチベットを支配したのが事実。

  4. これはチベット社会発展の偉大な転換点であり、中華民族が100年にわたる近代貧弱史を終わらせて新しい偉大な振興に向って進んだ必然の結果であり、チベット社会発展の客観的な要求である。

    どう読んでも中国にとって都合のいい「主観」にしか見えない。
    「転換点」であったことは間違いない。チベットが闇の時代に突入した転換点という意味において・・・。

  5. その伝統文化はトバン王朝による統一を始まりとした。

    これは嘘とまでは言わないが、トバン(吐蕃)とは飽くまで中国側の呼称に過ぎないことだけは頭の隅にでも置いてほしい。

  6. 7世紀、古代チベットの傑出した政治家・ソンツァンガンポがトバン王朝を打ち建て、唐王朝の文成姫を后として迎えて中原の漢民族と密着な政治、経済、文化の連係を保ち、「社稷を相談すること一の如き」、「和して一家と同じくす」といった政治連盟を形成し、後の統一国家の一部になるための基礎を築いた。

    「社稷を相談すること一の如き」「和して一家と同じくす」の部分については、石濱裕美子・早大教授のブログに詳しい解説がされているが、これは中国側が「唐蕃会盟碑」の一部を抜き出して都合よくこじつけたもの。当時のチベットと唐はむしろ対立関係にあり、唐はチベット王朝の脅威にさらされ、文成姫を降嫁させたのも漢が匈奴に王昭君を差し出したのと同様、人質的な意味合いが強かった。文成姫の降嫁が「後の統一国家の一部になるための基礎を築いた」ことの根拠になるのなら、チベットはネパールと不可分だと言うこともできてしまう。

  7. 13世紀中葉の元代、チベットは正式に中国の版図に組み入れられ、中央政府の管轄下で中国領土の不可分の一部となった。

    2.で書いた通り。

  8. 1372年、明の太祖はカッキョ派2代目の領袖・甲央(ジャヤム)をチベットの法王として封じて、チベットを統帥し管理させた。その後の歴代法王の王位継承は中央政府が封じることになっている。

    単なる冊封体制。室町幕府の将軍・足利義満だって明から「日本国王」に封ぜられている。これが「チベットは中国の不可分な一部」と主張する根拠となるのであれば、日本や韓国、ベトナムなども「中国の不可分な一部」となってしまう。
    そもそも、「カッキョ派」って――「カギュ派」でしょ(笑)。

  9. 新中国成立後、チベット人民を含む全国各民族人民の共通の願いである祖国の大陸の統一実現のため、中央人民政府は1951年5月23日にチベット地方と『平和的にチベットを解放することに関する取り決め17条』を締結して、チベットの平和的な解放を実現させた。

    1. チベットは中国に統一されることなど願っていなかったと思う。
    2. 『17条』締結は中国当局の脅しがあった、調印の際に使われたチベットの印は中国が偽造した、と言われている。しかもチベット側の調印者アボ・ガワン・ジグメ(中国当局への協力者として有名)は全権を委任された訳でもない。以上のことから、そもそも『17条』は有効性を欠く協定と言っていいのでは――しかも、その後協定をことごとく破ったのはほかならぬ中国当局の方である。
    3. 3.に書いた通り。中国当局のチベット侵略は「平和的な解放」などではない。
  10. チベット総人口95%以上を占めた農奴と奴隷は身の自由がなく、人としての基本的な権利が剥奪されていた。領主は農奴と奴隷を思うがまま殴ったり罵ったり、処罰、売買、贈与さらには監禁、死刑にしたりすることができた。

    チベットに20世紀まで貴族制・荘園制が存在し、荘園の下で小作農が働かされていたのは残念ながら事実。しかし、「農奴」という言葉の使い方は果たして適切なのだろうか。
    チベットの娘-リンチェン・ドルマ・タリンの自伝』では、チベットの荘園主と小作農の友好的な関係、小作農の荘園主に対する発言力が随所で描かれ、貧農でも僧侶になれば高官への道を切り開くことができるとも記されている。
    また、当時の様子を書いた文献の中には、
    • 「領主が豊かな生活を享受するためには、農奴にできるだけ快適な暮らしを保証してやらなければならなかった」
    • 「大貴族や僧院を除けば、事実上領主と農奴との間には一種の連帯感があった」
      (以上、フレデリック・ルノワール『チベット 真実の時Q&A』)
    • 「実際、社会的階級性などあってなきが如くであった。収穫期には農民も貴族も一緒に楽しみ、チャン(地ビール)を飲み、金持ちの家の中庭で催される舞踏劇を見守った」
      (以上、マイケル・ダナム『中国はいかにチベットを侵略したか』)
    などと書かれていて、中国当局の主張する「苛烈な農奴制」という姿とはかけ離れたものではなかったのではないかと考えられる。
    【補足】
    2010年7月18日、第9回「チベットの歴史と文化学習会」にて「チベット“解放”の言説をめぐって」と題して中国共産党の「チベットの封建農奴体制からの解放」という言い分や「チベットにおける“農奴”」に関する非常に有意義な講演がありました。「雑記ブログ」にてその要点を纏めています。

  11. チベットの地方法典によれば、社会は3等9級に分かれ、「人には上、中、下の3等があり、等ごとにはまた上、中、下の3級に分かれる」。上等上級の人の命の貴さは黄金に等しく、下等下級の人の命は1本の縄にしか値しない。チベットの裁判所と監獄は刑法を犯した者に対して、目玉をくり抜く、鼻を切り落とす、四肢を切り去る、筋を抜き出すなど数十の残酷な刑罰を制定した。

    「社会は3等9級に分かれ・・・」についてはまだ未検証だが、かつてのチベット社会に残酷な刑罰が存在したことは事実であるようだ。しかし、1913年のダライ・ラマ13世による独立宣言には「以後、こうした厳しい処罰は禁止する」と謳われており、自ら改善の道を進みだしていたのだ。こうした改革は内政及び外交の努力で行われるべきものであり、支配して押し付けるものではない。

  12. チベット自治区の現任主席、列確(リイエチョ、チベット族)氏はこう述べている。「チベットの封建農奴制度の政治的暗黒さと残酷さは、人類の近代史と現代史においては希に見るものである」

    リイエチョは中国共産党の考え方に染まり切り、ダライ・ラマ14世を「扇動者」として非難するという、チベット人としてのアイデンティティをどこかに置いてきてしまった人物。中国共産党によるネガティブ・キャンペーンもしくはプロパガンダの一環として語られた可能性が高く、これをチベット人の考え方を代表する言葉として受け止めることは禁物。

  13. (『チベット社会がいかにひどいものだったか』という趣旨の文を長々と書いた後)チベット人民に対して言えば、民主改革を実行し、封建農奴制度を廃止することは、彼らの歴史的な選択である。

    例えそうだとしても、前にも書いたように、それは内政及び外交の努力で解消されるべきものであり、支配して押し付けるべきものではない。

  14. チベットが平和的に解放されてから、チベット人民は全中国人民と同じように国家と社会の主人公となった。

    何度も言うけれども、"平和的に解放"などではない。また、チベット人は漢人と比べると、自由・人権の面で明らかに差別を受けている。

  15. 1959年にチベットの上層反動集団が引き起こした武装反乱を平定して民主改革を実行したことは、代々一切の権利を剥奪された百万の農奴と奴隷が、政治、経済、文化など各方面にわたって主人公としての権利を初めて行使し、憲法と法律が定める全ての公民としての政治権利を獲得したことを示している。

    1. 1959年の騒乱は、上層部のみならずラサ全市民による自然発生的な抗議行動。
    2. チベット人が武装したのは寺院破壊などを行う人民解放軍への対抗措置であったとされる。
    3. 民主化を力で抑え込むような国が"民主改革"などあり得ない。
    4. "公民としての政治権利を獲得した"というのとは全く逆に、チベット人は自由(特に宗教と言論)を、人権を、独自の文化・言語を奪われつつあるのが現実。
  16. チベットの経済建設を速め、人民大衆の生活水準を絶えず引き上げ、チベットの広範な大衆に十分な生存権と発展の権利を持たせることは、チベット活動に関する中央政府の第一に重要な目標である。

    13.に同じ。

    (以下、当時掲載されていた写真のキャプションについて)

  17. チベットが平和的に解放された初期のポタラ宮前。風に乗って翻る五星紅旗と喜ぶ人々。

    この写真から「喜ぶ」という雰囲気は読み取れない。ただ威圧的なだけ。
    それに、よく見えないのだが五星紅旗を持っているのはもしかすると中国軍兵士では? もしそうだとすれば、「平和的に解放」という虚言がますます空々しい。

  18. 民主改革前のラサ市街

    物乞いが数多く移っている写真だが、これが"民主改革"前のものか後のものかは撮影者と編集者のみぞ知るところである。"民主改革"後のラサの街にも物乞いが数多くいることは、私も見ているし、映画「チベットチベット」でも映し出されている。

  19. 農奴主の支配下では、農奴と奴隷は飢えと重労働以外には、ただ体を傷つける拷問道具が待っているだけであった。

    この拷問道具が農奴に対して使われたものかどうか、この写真から断定することはできない。案外、中国がチベット人を拷問(日常的に行われている)する際に使われているものだったりするかもしれない。

  20. 1951年、中国人民解放軍がチベットを平和的に解放したニュースを聞くと、チベット人民は様々なプレゼントを用意して歓迎、各地の族長(地方首長)、生き仏、ラマ僧と大商人もハダを持って道端に出て歓迎

    2枚の写真とも、肝心の「歓迎される側」が写っていないのはどういうことだろう? 本当に解放軍を歓迎する写真なのか、甚だ疑わしい。と言うより、全く別の人物(例えばダライ・ラマ)を歓迎している写真を偽っている可能性が極めて高い。
    ※これについてだが、パルデン・ギャツォ師が著書『雪の下の炎』の中で
    中国側は、張経武の到着に際して集まったギャンツェの群衆という写真を発表した。その説明には『中国政府代表を歓迎するチベットの民衆』と書かれていた。とんでもない大嘘である。私たちは私たちの指導者であるダライ・ラマのお姿を一目見ようと集まったのだ。
    と書いている。もしかすると、この2枚の写真がそれではないだろうか。実際、2枚目の写真にはギャンツェ・ゾンらしき丘の上の大きな建物が写っている。

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