バス憧れの大地へ

世界への旅(旅行記)

香港―大陸中国南部

南京 ~この街で日本軍がしたこと

1991年3月28日

南京の城壁跡
南京の城壁跡
31時間もの船旅の後、南京に到着した。
南京はかつて、何度も都になった都市であり、日本で言えば、京都に似た、落ち着いた雰囲気がある。

宿は、南京大学の学生寮でとった。
3人部屋で、ベッドの横に、先客のカバンが置いてある。ネームタグを見ると、日本人の名前だった。
しばらくすると、そのカバンの持ち主が部屋に戻ってきた。
開口一番、
Can you speak English?
 ―― どうやら、2週間にもわたる中国旅行の間に、私はすっかり国籍不明な風采になっていたようだ。


1991年3月29日

前日の南京到着が遅かったので、本格的な街巡りはこの日から。南京にも、色々な見所がある。
この日は城壁跡、南京長江大橋、太平天国歴史博物館などを回った。
しかし、やはり特筆すべきは、

 ――  南京大虐殺記念館

中国共産党(以下「中共」)政府の主張する「30万人」というプロパガンダは論外だが、この街で数千若しくは数万人という大勢の中国人が日本軍に殺されたこと自体は否定し難いと、私は考えている。
泥でも投げつけられたのか、日本語で書かれた哀悼の言葉の掲示に、汚れがこびりついている。
戦争が終わって50年近く  ――  長いようで実は短い。まだまだ感情の溝が埋まるまでには時間がかかるかもしれない。
記憶自体は風化させてはならないと思う。忘れてしまったらまた同じことが繰り返されるばかりであり、戒めの意味として国民の記憶の中に留めておく必要はある。しかし、人数の多寡など本質から外れた部分での議論は余りに不毛であるし、必要以上に過去の出来事に対してネガティブにこだわり続けるのも建設的ではない。
日中双方が歴史に背を向けず、正面から向き合い、過大評価も過小評価もせずに歴史を共有することができれば、それが理想である。

1991年3月30日

この日はまず、中山陵へ。広州に記念館もあった、孫文の墓である。
”革命の父”(とは言っても所詮漢人至上主義者)の墓は、宮殿のように大規模なものが多く、孫文の墓もまた、然りである。
孫文は、死ぬ間際に「革命未だならず」と言ったといわれている。しかし、孫文が志していた「革命」とは、中共がやってきたものとは間違いなく全く異なるものである。
そして、この墓を見て思ったのは、
(孫文は果たして、こんな立派な墓に埋葬されることを望んでいたのだろうか…)

中山陵
孫文の墓・中山陵
明孝陵
明の洪武帝の墓・明孝陵

次に訪れたのも、やはり墓。明の初代皇帝・洪武帝の墓・明孝陵だ。
彼は一介の農民から皇帝にまで上り詰めた人物であり、中国史上でも私が注目している1人である。それだけに期待していたのだが、ただばかでかいという印象だけで、中山陵の方が見事だった気がする。

中国に入って半月になるが、その間、雨こそなかったものの、ずっと曇っていた。
この日は初めて太陽を拝むことができて、気分も少し明るくなった。

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