鹿児島・宮崎100名城(6)―延岡城
2024年5月7日
宮崎・延岡駅前で一夜を明かし、今回の城巡りの旅の最終日を迎える。
最後に巡る城は、延岡城(続100名城 No.195)。天下を統一した豊臣秀吉の命で延岡の地に赴任した高橋元種が1603年に築城し、その後有馬氏、三浦氏、牧野氏、内藤氏の居城となった城だ。
延岡駅から延岡城へは、歩いても20分強。朝の8時前に宿を出て歩いて向かう。
「ゴーーーーン」
道中、どこからともなく、鐘の音が響いてくる。風情があっていい。
延岡山五ヶ瀬川に架かる亀井橋に差し掛かると、川の向こうに延岡城の城山(延岡山)が見えてきた。ゴールデンウィークが明けて登校する地元の中高生たちと一緒になって橋を渡る。ちなみに延岡山を過ぎた先には更に大瀬川が流れていて、延岡城は五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた大きな中洲の中にあり、これらの川を天然の堀にしている格好だ。
北側から北城山街区公園を抜けて延岡山にアクセスすると、北櫓跡の石垣が出迎えてくれる。
延岡城 北櫓跡
延岡城 北大手門北櫓跡の右側から延びる坂道を上ると、城の縄張の入り口である北大手門に行き着く。延岡城の建物は第2次大戦時の空襲で全て焼失していて、北大手門は1992年に復元された、延岡城の数少ない再建物だ。
門をくぐった先の二の丸広場の一角にある城山公園管理事務所が続100名城のスタンプの設置場所である。私が訪れた時はちょうど開店準備中だったが、スタンプは出ていたので無事このタイミングで頂くことができた。
さて、先述したように延岡城の建物は何も残っていないが、石垣は空襲を生き延びて現存している。中でも、北大手門をくぐった先にある石垣は22mという高さといい重厚感といい、圧巻だった。
延岡城の「千人殺しの石垣」その名も「千人殺しの石垣」。何とも物騒な異名だが、一部を外すと崩れ落ちて一度に1000人を葬り去ることができる石垣なのだという。
その「千人殺しの石垣」の横に設けられた上り坂を上ると、その上にあるのが本丸広場だ。「千人殺しの石垣」の真上からは二の丸広場や延岡の街を見渡すこともできる。
延岡城 本丸広場
「千人殺しの石垣」の上から望む延岡城 二の丸広場本丸広場から更に上へと坂道がある。導かれるままに上ってみると、その先にあったのは「天守台」と呼ばれる曲輪だった。しかし実際にここに天守が建てられたということではなく、延岡城では有馬氏の代の改修で1655年、一段下の場所に天守代用の三階櫓が築かれている。その三階櫓も1683年に焼失して以降は再建されていない。
今この曲輪にあるのは1878年にこの場所に移されて来たという、「城山の鐘」と呼ばれる鐘突き堂とその管理棟だ。この鐘は鳴らせるのだろうかと思って近づいてみたが、鐘を突く時間が決められているようで、来訪者が勝手に突けるものではなかった。タイムテーブルを見てみると、「午前8時」の文字――そう。延岡城まで歩く途中で聞こえてきた風情のある鐘の音は、この鐘の音だったのである。
延岡城天守台。右奥が「城山の鐘」下りは先述した三階櫓の跡、三の丸跡経由で再び二の丸広場、千人殺しの石垣に戻り、北大手門をくぐって延岡城巡り終了。そして今回の南九州城巡りも終了だ。
延岡駅からJR日豊線で、直行の列車で宮崎空港に移動したが、夜の便を予約したのでまだ時間がある。せっかくなので、コインロッカーに荷物を預けて、前回宮崎に来た時には通過しただけだった道の駅フェニックスまでバスに乗って足を延ばしてみることにした。
道の駅フェニックスという施設自体はドライバーとライダーの休憩地点以上のものではないが、ここから見る景色が素晴らしい。空の下に日向灘の海を臨むことができるが、一番の見どころは海の手前。この一帯の海岸は地層の線がむき出しになっていて「鬼の洗濯板」の異名で呼ばれている。自然が織りなしたこの絶景を眼下に眺めながら、バス停1つ分歩いてみた。
道の駅フェニックスから望む「鬼の洗濯板」
宮崎・青山の「鬼の洗濯板」まだ時間があったので、バスで少し空港方面に戻って青島へ。ここは前回宮崎訪問で訪れた場所だが、「鬼の洗濯板」を間近で見ることができる景勝地だ。
宮崎県庁庁舎
宮崎駅青島から空港まで行くちょうどいいバスが無かったため、一旦宮崎市の中心まで戻り、宮崎駅から空港へ。これでちょうどいい時間に到着することができた。
羽田行きの便で関東に戻り、今度こそ今回の城巡りの旅も終了だ。
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