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日本100名城

100名城探訪記

九州北部100名城巡り(3)―金田城 ほか対馬

2022年5月2日

午前4時すぎ、福岡・博多で乗船したフェリーちくしが長崎・対馬の厳原港に到着した。
この時にすぐ下船するか、7時まで船内で休んでから下船するかの2つの選択肢があったが、下船しても9時まで暇を持て余すだけだったので、7時まで待って下船する方を選んだ。
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フェリーちくし

下船してまず向かったのが、この日泊まる宿。港を出て程なくしてすぐ目に入る高層ホテルだった。
大きなキャリーボストンだけフロントで預かってもらって、リュック1つの身軽さになって、いざ、対馬での行動開始。
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厳原の中心街
厳原は、対馬の南の中心地。大きなスーパーマーケットあり、高層のホテルありで、イメージしがちな「離島の街」に比べるとはるかに開けている印象だった。
対馬はレンタサイクルで巡る予定にしていた。500円で1日中借りることができるホテル対馬のタクシー営業所を最有力候補にしていたのだが、営業時間は9時から。まだ早いが、下見がてら赴いてみた。
すると、既に職員の方がいて、営業時間開始前ではあるが自転車を貸してくれるという。思いがけず、9時行動開始の予定が7時40分に行動を開始することができた。

対馬で目指したのは、金田城(かなたのき)(続100名城No.186)。
7世紀、倭(日本)は唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れ、九州北部各地で防備の増強を迫られた。その最前線的なものが、九州本島の沖に浮かぶ対馬に築かれたこの城である。
厳原から金田城登山口までは18㎞。しかも相当なアップダウンがあるようだ。借りることができたのは変速機の無いシティサイクル(いわゆる『ママチャリ』)だったので、片道1時間以上かかることは間違いない。この旅2日目にして早速、一番のハードコースのお出ましだ。

金田城へのルートは、トンネルを5つ越える山がちな道だった。しかし、トンネルがあればまだ平らで済む。時には激しいアップダウンに見舞われる。
実はこの時、私の脚は2週間前に走った長野マラソンのダメージがまだ抜けきっていなかった。膝と太腿に時折痛みが走り、特に右の太腿は痙攣寸前の痛みに見舞われることもあった。そういう状態だったので、急な上り坂に差し掛かったら無理はせず、素直に歩いて自転車を引いたので、予想以上に時間がかかってしまった。
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県道24号から金田城跡登山口への分岐
国道382号から長崎県道24号へと移り、厳原を出発してから1時間20分、ようやく「金田城→」の標識にたどり着いた。しかし、こことてまだ金田城登山口への入り口にすぎないのだ。急登は更に続く。しかも、ここから先は木々に覆われた山道で、幅は自動車がすれ違うことも難しい狭さ。金田城を目指す人は通常、ここを自動車で行き来するというのだから、結構な技術が求められる。
自転車をこいだり、下りて手押しで歩き進んだりを繰り返し、ようやく金田城へ向かうと思われる山道の入り口が見えたかと思いきや、本当の登山口はまだ先とのこと。しかもそこからの道は、急激な下り坂だった。軽快に下っていったが、気持ちは全くポジティブにはなれなかった。
[これは、帰りもまた急登に苦しめられるな...]
という思いが先だったのである。
下り坂を終えたあたりで、遂に路面の舗装が無くなり、土むき出しの緩やかな上り坂に差し掛かった。しかし、ここまで来たらもう到着したも同然だった。程なくして、自動車が何台も停められた金田城跡登山口に到着した。時刻は9時20分。想像以上に時間がかかり、厳原から自転車で1時間40分を要した。
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金田城跡登山口
到着して間髪入れず、徒歩で登山開始。10分ほどで、湖のようにも見える黒瀬湾を眼下に望むことができるビューポイントに到達した。
更に少し先へ進むと、右手に黒瀬湾の方へ遙か先まで延びる石塁が威容を放つ光景を眺めることができた。
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金田城石塁。奥に黒瀬湾も見える
その地点の分岐から山側の道を更に先へ進むと、ビングシ土塁を経て、二ノ城戸、一ノ城戸を見ることができる。いずれも当時の様子を残す立派な石塁だ。
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二ノ城戸
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一ノ城戸
二ノ城戸から、今度は海側の道を進むと、沢のほとりに建つ三ノ城戸に行き着く。
更に進むと左手に黒瀬湾を見渡す地に東南角石塁に出た。この石塁はかなりの長さがあり、辿って坂を上っていくと、行き着いたのは先ほど石塁と黒瀬湾を同時に臨んだ分岐点だった。
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三ノ城戸
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東南角石塁
山頂にも何か遺構があるようだったが、時間・体力・飲料水と3つのハードルがあり、これ以上は難しいと判断。それに、これまで見てきた遺構がいずれも、当時の城の姿や、白村江の戦敗戦という時代背景を物語るに十分な見事なもので、私の心を既に満足させていた。城巡りは明日以降も続くことだし、体力を温存しよう――頂上はあっさりと諦めて、私は登山口へと引き返した。
11時50分、自転車で登山口を出発。帰り道もアップダウンが厳しかったが、トータルでは下りだったので、行きのアップダウンよりも容易だった。
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根曽古墳群
厳原の街中に帰り着いたのは13時30分。途中、根曽古墳群(5~6世紀の古墳群)という案内板に気持ちを引かれて寄り道しながらも、かかった時間は行きと同じ1時間40分だった。

ところで、金田城には到達したものの、続100名城のスタンプは現地には無い。スタンプは厳原の観光情報館 ふれあい処つしまの観光案内所で頂くことができた。更に金田城へ行った証となる写真を見せることで、金田城の御朱印を頂くこともできた(オンラインで頂くこともできる)。
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金石城跡
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萬松院
古代の金田城以外にも、対馬南部には対馬藩藩主・宗氏の居城だった金石城跡や、宗氏の菩提寺・萬松院などの名所がある。また、対馬は朝鮮通信使(室町時代~江戸時代に李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団)の通り道であり、宗氏が通信使に対しての交渉役の任を担っていたこともあって、街の至る所に「朝鮮通信使~の地」という碑が立っている。
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厳原の街中の石垣
その他、厳原の街中にはいたる所に石垣を見ることができる。城のものではない。一般の住宅の塀のような感覚で見ることができるのだ。それらは武家屋敷の名残りだったり防火壁の名残りだったりするのであるが、いずれにしても、対馬の歴史深い趣きを街全体で感じることができる。

アルファポリス

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