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日本100名城

100名城探訪記

大分100名城(4)―佐伯城

2025年3月23日

この日は朝から大分駅から青春18きっぷでJR日豊線を南下して、1時間20分ほどで大分県南部の佐伯駅に到着。当初は駅前の観光案内所で自転車を借りるつもりだったが、営業開始まで30分ほどあり、ここから目指す城の麓までは歩いても30分。それなら歩こうかということになって、河童伝説の残る川や、武家屋敷通りの面影が残る 「歴史と文学のみち」を歩いて目指す佐伯城(続100名城No.194)へと向かった。 写真
河童伝説の残る川の向こうに佐伯城を頂く八幡山が見える
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武家屋敷通りの面影が残る 「歴史と文学のみち」
佐伯城は、道すがら進行方向に見えていた八幡山の上に、関ヶ原の戦いで徳川方に与し海部郡に2万石を与えられた毛利高政によって建てられた山城だ。山頂部に石垣造りの本丸、本丸外曲輪、二の丸、西出丸、北出丸が連郭式に配置され、6年をかけて1606年にほぼ完成するが、1617年、火災で本丸と天守を焼失する。その後1637年、麓に三の丸が増築されて居館が移されて以降はそちらが中心施設として利用され、山の上の建築物は荒廃するが、毛利高慶の代の1709年、天守以外の建物が復興、修復される。しかしその建物も明治に入り破却され、山頂には石垣のみが残り、現存する建物は麓の三の丸櫓門のみとなっている。 写真
佐伯城 三の丸櫓門(手前)と山頂に残る石垣
三の丸櫓門を正面に見て少し後ろに引いてみると、その背後の八幡山の上に石垣を見ることができる。標高144mとさほど高くはない。すぐに登ることができるだろう。
登山道は三の丸櫓門の裏右手から延びているが、途中で3方向に分かれている。右の道が「独歩碑の道」(注:佐伯は明治の文豪・国木田独歩ゆかりの地)と呼ばれ、本丸に続く舗装された比較的緩やかな道だ。中央の道が藩政時代に実際に使用されていた、西出丸・二の丸に続くやや急な山道「登城の道」だ。左の道が「黎明の道」と呼ばれる一番急なルートである。更に山の反対側には「若宮の道」と呼ばれる道もある。
私は「独歩碑の道」から本丸を目指し、帰りは「登城の道」を一気に下るルートを選んだ。
「独歩碑の道」を上っていると、地元のシニアの方々が歩いているところに何度も出くわす。手ごろな山なので、いい健康維持の場所になっていると見える。
もう少しで本丸、というところに「雛壇状石垣」があった。確かに、本丸から石垣が雛壇状に連なっている。風雨で崩れやすくなっていたためこのような工夫が施されたという。 写真
佐伯城 雛壇状石垣
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佐伯城 本丸広場
雛壇状石垣から程なくして、本丸広場に到着。登城を始めて20分程度だった。見晴らしが良く、佐伯の街並みの向こうに豊後水道を望むこともできる。 写真
佐伯城 天守台
本丸広場の中央には天守台が鎮座している。築城当初はここに3重3階の天守があったとされるが、先述した通り早い段階で焼失してその後再建されず、詳細は不明となっている。
先程麓から見上げた山頂の石垣の上にそんな天守が建っていたかと考えると、かなりの存在感のものが想像できる。 写真
廊下橋の手前から望む佐伯城 二の丸と西出丸跡
本丸・天守台の背後には二の丸・西出丸跡が広がっている。そして本丸と二の丸の間には廊下橋が架かっている。実は本来、佐伯城本丸へ行くにはこの廊下橋を渡るのが唯一の通り道だったのだ。いざという時にはこの橋を落として敵の侵入を防ぐという、まさに鉄壁の守りを誇っていたのである。 写真
佐伯城の本丸(奥)と二の丸(手前)を連結する廊下橋
帰りは本来の登城唯一の道だった「登城の道」を一気に駆け下りて、麓の佐伯市歴史資料館で続100名城のスタンプを頂く。ここでは佐伯城のほか、戦国時代に佐伯にあった佐伯氏の居城・栂牟礼城についても知ることができるので、時間があればゆっくりと参観したい。

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