山陽・山陰西部100名城―序・この地域の歴史
2025年のゴールデンウィーク(GW)の城巡りの旅は、広島から入って山口、島根と回って最後は鳥取西部の米子で締めくくるというプランで巡ることにした。
旅に出る前にこれらの地域の城について、特に戦国時代について予習してみると、驚くほど同じ人物、同じ大名の名前が出てくることに気づく。そこで今回はまず、この地域の戦国時代の歴史について纏めてみた。
大内氏館
月山富田城
吉田郡山城戦国時代のこの地域は、極めて大雑把に言うと、16世紀前半には広島・山口に大内氏(拠点は大内氏館・高嶺城)、島根・岡山に尼子氏(拠点は月山富田城)という勢力図になっていた。
1540年、尼子晴久は尼子氏から離反して大内氏方に就いた安芸(広島西部)有力国人である毛利氏の本拠地・郡山城を攻めるが、大内氏の支援も得た毛利元就はこれを退ける(吉田郡山城の戦い)。1542年、今度は大内義隆軍が毛利氏などを引き連れて出雲(島根)に出兵するが、晴久はこれを退ける(第1次月山富田城の戦い)。これを機に大内氏は衰退を始め、1551年、義隆は家臣の陶隆房(晴賢)に滅ぼされる(大寧寺の変)。しかしその晴賢も三本松城(のちの津和野城)を拠点とする吉見氏の挙兵(三本松城の戦い)に遭うなどした後、毛利元就に攻められて滅び(厳島の戦い)、毛利氏は、安芸から防長を領する戦国大名となる。勢いを増した元就は出雲侵攻を本格化させ、1562~63年にかけて月山富田城に立て籠もる尼子義久を攻め落とし、戦国大名・尼子氏を滅ぼす(第2次月山富田城の戦い)。これにより毛利氏は中国路(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領する西国随一の大名となる。
元就の孫・毛利輝元は天下統一を目指す織田信長と対立するが、豊臣秀吉が天下を統一するとその配下となる。しかし輝元は1600年、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として敗軍の将となり、東軍に通じた親戚の吉川広家のとりなしで取り潰しは免れるものの、広島城を築いたばかりの安芸をはじめ所領を失い、萩一国に追いやられる。輝元はこの地に萩城を築き、毛利氏は以後、萩城を拠点に明治まで長州藩の藩主を務める。
ちなみに関ヶ原の戦後処理の際、出雲・伯耆に封ぜられていた吉川広家は拠点を月山富田城・米子城から岩国城へ移すことになる。また、東軍の将として功あり出雲に封ぜられた堀尾忠氏は初め月山富田城に入るが、すぐに松江城を築いてそちらに移っている。
島根の石見は毛利の減封の後、徳川直轄領、津和野藩の管理下を経て、大坂の陣で功のあった古田重治が浜田に入って浜田藩が興り、浜田城が築かれる。
広島城
萩城
松江城
こうした歴史を知った上でこの地方の城を巡れば、100倍楽しめること相違ない。
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