バス憧れの大地へ

世界への旅(旅行記)

満洲(2002年)

長春・2 ~中国の“太秦


午後からは、満州国遺構巡りの締めくくりの場所・満州国皇宮博物院(満州国を認めない中国当局はこれを"偽満皇宮"と読んでいる)に向かう。
満州国皇宮
満州国皇宮の緝熙楼
先述したように、溥儀の宮殿となる予定だったのは地質宮だったが、結局地質宮は未完のままに終わったため、溥儀の主要な居住地となったのがここだ。
入場するとまず、溥儀が暮らした緝熙楼が目に入る。そして建物の前には「勿忘九一八(九一八事変=いわゆる満州事変=を忘れるなかれ)」という、訪問当時の中国共産党書記長・江澤民の文字による石碑が置かれている。午前中に満州国時代の遺構を訪れた際「これらの建築物が残っているのは『国恥忘るるべからず』という思いからでは」という印象を受けたが、この石碑を見ることで、その“印象”は“確信”に変わった。
溥儀が清の皇帝時代に暮らしていた北京の紫禁城と比べてしまっては気の毒なのだが、概観だけを見ていると、確かに立派な建物ではあるものの豪華さには欠けており、敷地もそう広くはないので、これが“宮殿”と言われてもなかなかピンとは来ない。中庭にあるプールも、そうしたものがあること自体はここで暮らしていたのが特別な人物であることを物語ってはいるのだが、ちょっと大きな露天風呂ぐらいにしか見えない。
しかし内装は、改修されているせいもあるのだが、なるほど“宮殿”である、と思わせる豪華さがあった。 満州国皇宮内部
満州国皇宮内部の廊下
溥儀が過ごした部屋等は、やはり皇帝級の人物の居室、という雰囲気が漂っている。壁に当時の写真が飾られている廊下に敷かれた、当時を再現したものと思われる赤じゅうたんも然りである。その他、日本側の要人を迎える際に使われた応接室は見事なほどの和式であり、満州国が日本の傀儡であったことを如実に物語っている。
この“仮宮殿”における溥儀の生活は日本の敗戦とともに終わり、溥儀は軍事裁判にかけられることになる。釈放後、溥儀は平民の身分に甘んじることになるのだが、そのことから考えるに、溥儀は決して権力に執着する人物ではなく、満州国の皇帝になったのも日本軍にまつり上げられて否応無くのことであって、彼は政治生命よりもむしろ、自分自身の生命に執着していたのではないか、と私は想像する。
ここまで、長春の“満州国の都・新京”の顔ばかり追いかけていたが、この街にはまた“映画の街”という顔がある。
長春電影宮は、中国の太秦とも言うべき映画村である(ただし、私は京都在住の経歴があるにもかかわらず太秦映画村は訪れたことがなく、この形容が果たして的確なものかということには、やや自信が無い)。また、この映画村の前身は満州映画株式会社であり、やはり満州国の支配とは切っても切れない関係にあるのだが、今ではそんな経歴を思わせる雰囲気は無い。
長春電影宮
長春電影宮で行われた撮影の様子の実演
電影宮内には宮殿・城壁・昔ながらの街並みなどのセットが並んでいるが、この日は撮影は行われておらず、満州族の婚礼や映画の撮影現場の再現が辛うじて私を楽しませてくれた。
ただ、この映画村でどのような映画が撮影されたのかということがやや見えにくく、その点では、一昨年訪れた寧夏回族自治区・銀川の影視城ほどには面白く感じられなかった。
吉林省には長春以外にも訪れるべき街が多くあるのだが、帰国便の期日が迫っていたこともあって、取りあえずは未到達であった吉林省に足跡を残しただけでもよしとして、次の目的地・瀋陽に向かうべく、荷物を預けていたホテルに戻った。
荷物を受け取る際、私を外国人と見て取った女性の服務員が「何時に預けたのですか?」と英語で尋ねてきた。しかし、とっさに“eleven o’clock and an hour”という英語が頭に浮かばず、ほとんど習慣的に“十一点半”と中国語で答えてしまっていた。
「私が英語で聞いたら、中国語で答えるんだもん、恥かいた~!」
彼女は同僚に、そうぼやいていた。
瀋陽には高速バスで向かったが、車内でそのバス会社のパンフレットを見たところ、瀋陽の次の目的地・丹東へも高速バスがあるようである。手元の地図では瀋陽― 丹東の高速道路は未開通となっていたが、どうやら既に完成しているらしい。
長春―瀋陽の移動も快適だったが、その次の移動も、どうやら予定以上に快適になりそうだ。

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