バス憧れの大地へ

日本100名城

100名城探訪記

関西中部100名城(1)―大和郡山城ほか

2024年3月29日

午前6時20分すぎ、前日23時すぎに横浜を出発した夜行バスがJR奈良駅に到着。
今回はここから、奈良県、大阪府南部、和歌山県北部の100名城、続100名城を巡る旅を始める。その前に、せっかく9年ぶりに奈良市に来たことなので、朝の短い時間を利用して興福寺東大寺の大仏だけ訪れる。到着時は生憎の雨で、奈良公園の鹿も雨宿りする程だったが、今回の旅で雨はこれだけ。大仏殿に着く頃には上がってくれていた。 興福寺
興福寺
東大寺の大仏
東大寺の大仏
開業時間の午前8時(秋冬時間)を待って大仏殿に入場して大仏を拝み、急ぎ足で近鉄奈良駅へ。近鉄奈良線と橿原線と乗り継ぐこと20分強、郡山駅で下車。徒歩10分程で今回1つ目の名城・大和郡山城(続100名城 No.165)に到着する。
大和郡山城は織田信長に臣従した戦国武将・筒井順慶が拠点として改修された城である。順慶の死後は豊臣秀吉の弟・秀長が、その後五奉行の一人・増田長盛が城主となって改修が進められた。関ヶ原の戦いで長盛が高野山に追放されると、郡山城の建築物は殆ど徳川家康により伏見城に移築され、天守は二条城に移され、一時廃城となるが、江戸時代、水野勝成が入封した後に徳川幕府により建造物を取り戻すなどして改修され、以後水野氏、本多氏、柳沢氏が城主を務める。 大和郡山城の追手向櫓と追手門
大和郡山城の追手向櫓と追手門
まずは東側の堀に沿って歩き、追手門(梅林門)へ向かう。この門は追手向櫓多聞櫓(いずれも再現)との組み合わせでコの字型になっていて防御力を強めている。
追手門から入城。二の丸を散策した先にあった地方史誌専門図書館「柳澤文庫」で続100名城のスタンプを頂く。そのすぐ傍の内堀に架かる赤い欄干の極楽橋(再現)を渡った先が、本丸だ。 大和郡山城の極楽橋
大和郡山城の極楽橋
大和郡山城の内堀に咲く桜
大和郡山城の内堀に咲く桜
極楽橋を渡って本丸奥へと向かうとすぐ上り坂になっていて、月見櫓趾に着くと先程歩いていた二の丸が一段下に見える。折しも春先。この年は全国的に桜の開花は遅れていたが、大和郡山城内堀の畔には桜が見事に花を開かせていた。
月見櫓趾で内堀の桜を見て回れ右をすると、そこには天守台が聳えている。この上には豊臣秀保によって5重6階の天守閣が建てられたと伝わるが、そこまで大きいものは無理だったとの説もある。
天守台の上からは奈良市の若草山まで見えるというが、残念ながらこの時は雨が上がったばかりの曇り空でそこまで遠くをみることはできなかった。 大和郡山城の天守台
大和郡山城の天守台
これまで福知山城安土城で、石垣などの建材に墓石や仏像が使われてきた例に触れてきたが、ここ大和郡山城にもあった。天守台の北面にはさかさ地蔵なるものがあり、文字通りお地蔵さんが逆さまに埋め込まれているという。ただ、結構奥にあるようで、その姿を確認するのは困難だった。

大和郡山城の参観は思ったよりも早めに完了でき、次に向かう列車は予定よりも17分早い10時前のものに乗ることができた。
次の城だが、最寄り駅にはコインロッカーが無いため、1つ手前の飛鳥駅に大きな荷物を預けることにした。どちらにせよ、この日は2つ目の城を攻め終えた後に3つ目は時間的に少々厳しかったので、その代わりに観光名所の多い明日香村をサイクリングしようと思っていたところだ。
近鉄橿原線と南大阪・吉野線を乗り継いで10時34分、飛鳥駅に到着。コインロッカーに荷物を預ける。
郡山を早めに出発できたとはいえ、次の城に向かうためのバスの時間があり、結局は時間が空いた。駅最寄りの遺跡に行って帰ることができそうな時間だったので、そこだけ予定を前倒しにして行ってみることにした。
飛鳥駅から歩いて15分。到着したのは高松塚古墳。藤原京時代の7世紀末~8世紀初頭、小山の上に造営された円墳だ。直径約23mとまずまずの大きさである。被葬者は今のところ不明だという。 高松塚古墳
高松塚古墳
高松塚古墳の壁画(レプリカ)
高松塚古墳の壁画(レプリカ)
この古墳は極彩色の壁画が有名で、近くの高松塚壁画館でその姿を、勿論レプリカではあるが見ることができる。しかしレプリカとはいえ、1300年もの昔にこのように素晴らしい絵画の技法が発達し、それが長い時代を経て色鮮やかに生き残ってきたことに興奮を覚えさせるには十分だった。

アルファポリス

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