山陽・山陰西部100名城(6)―萩城
2025年5月4日
予定より1本早いバスで、山口市から日本海沿岸・山陰地方の萩へ向かう。
元の予定のバスで行った場合、次の城へは萩の旧城下町内を歩くかシェアサイクルを使うかだったのだが、萩へのバスが1本早くなったことで次の城まで行ってくれる萩市内のコミュニティバスの時間にちょうどよくなった。小ぶりなバスに身を委ねて悠々と、萩城(100名城No.75)へと赴く。
萩城は、前々日、前日と訪れてきた郡山城、広島城を拠点として広島・山口・島根一帯の覇権を手にしていた毛利氏の毛利輝元が関ヶ原の戦いで敗軍の将となり萩に追いやられた後、居城として築いた城だ。日本海に突き出した指月山の山麓の平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂の山城(詰丸)で構成されている。
萩城。左奥が天守台。奥の山が指月山。輝元の銅像もある二の丸の道を辿って正面入り口である本丸門へと続く橋に行き着くと、堀の向こうに石垣が構えられていて、その西の先端には堀に突き出すようにして天守台が鎮座している。かつては望楼型5層5階の天守が建てられていたが、明治の廃城令で解体されている。
本丸門の料金所で100名城のスタンプを頂いて、入城。門の先にある本丸広場は、梨羽家茶室などの当時の建物も僅かばかりに残っているが、ほぼ公園・神社として整備されている。萩城平城の見どころはやはり石垣と天守台だ。
内側から石垣を見ると階段状になっている。こうした石垣の階段は「雁木」と呼ばれるが、萩城本丸のものは端から端まで横に階段が延々と横に延びているのが特徴だ。
萩城城壁の「雁木」
萩城天守台から望む本丸広場と指月山天守台に上がって堀や本丸を上から眺めた後、本丸に下りて下から天守台を眺めてみる。萩城天守台の石垣は下の方が傾斜が緩やかで上に行くほど垂直に近くなっていて「扇の勾配」と呼ばれている。
萩城本丸側から望む天守台そして、先述した通り、平城の背後に佇む指月山も含めて萩城である。山上の詰丸まで行かないと、萩城を制覇したことにはならない。本丸広場の西北から延びる登山道を登り始める。
標高145mなので山頂までもそれ程かからない。20分ほどで詰丸の入り口である要害門跡に到着した。
萩城詰丸の要害門跡
萩城詰丸跡要害門をくぐった先が二の丸、その一段上にあるのが本丸だ。
指月山は花崗岩の岩山で、ここ詰丸は石垣の材料を切り出すための石切丁場があった場所であり、本丸のあちこちに石材を切り出すために矢穴列があけられた巨石が残っている。
そして、山上は格好の見張り台だ。南を向けば城下町が、北を向けば日本海を一望することができる。
萩城 海側の石垣下山して平城に戻り、東の出入り口から外に出てみると、そこは日本海の海辺だ。こちらも守りに抜かりは無く、指月山を囲むようにして石垣や土塀が築かれていた。
萩城 かつての外堀と北の総門一通り巡ったところで萩城を後にするが、800mほど東にまだ城の痕跡があった。南北に流れる細い川はかつての外堀で、これが「堀内」と呼ばれる三の丸エリアと、城下町の境界だ。萩博物館近くの外堀の一角には三の丸への出入り口だった北の総門が復元されている。
萩博物館
萩城城下町の木戸孝允旧宅
明倫館萩城巡りは完了したが、まだ日没までは時間がある。萩博物館、木戸孝允や高杉晋作ら幕末・明治の志士ゆかりの場所もある萩城城下町、かつての萩藩校で2014年まで実際に授業が行われていた明倫館、幕末の志士を輩出した松下村塾などを巡り、萩を満喫してこの日は終了。この街で1泊して次の城に備える。
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