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日本100名城

100名城探訪記

山陽・山陰西部100名城(5)―大内氏館・高嶺城

2025年5月4日

山口駅から次の城へ700mほど近づいた場所にある宿で一夜を明かし、朝一番で城攻めに出掛ける。
今回目指すは、大内氏館・高嶺城(続100名城No.174)。室町時代、周防国・長門国を本拠とした室町幕府の重臣・大内氏の平地と山の拠点である。
まずは標高338mの鴻ノ峰に1556年、大内義長により築城が開始された山城・高嶺城(こうのみねじょう)を目指す。 写真
高嶺城を頂く鴻ノ峰
高嶺城への道は、城の南東から登る急峻な登山道と、城の南西から登る緩やかな林道がある。私は南西から入って南東に下りる計画で挑んだ。
鴻ノ峰山麓の、幕末・明治維新の志士である木戸孝允の旧邸があった場所に設けられた木戸公園わきから、山登りスタート。遠回りだが緩やかで歩きやすいルートだ。駐車場とトイレのある施設を過ぎた分岐で右に曲がって歩き進み、木戸公園を出発して30分ほどで、電波塔のある高嶺城縄張入り口に到着した。電波塔のすぐわきに早速、高嶺城の曲輪跡がある。 写真
高嶺城 電波塔わきの曲輪跡
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電波塔から先が高嶺城の縄張
ここからが本格的な山道だ。舗装の無い上り坂を延々と上り、途中「広大な曲輪」を経て、主郭入り口に到着する。 写真
高嶺城「広大な曲輪」
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高嶺城 主郭の石垣
主郭入り口正面には「↑主郭まで20m →石垣まで60m」という看板が掲げられていた。まずは「→石垣まで60m」の方へ行ってみると、この城を強固なものにしていたのだと一目で分かる立派な石垣を見ることができた。
正面に戻って、今度は「↑主郭まで20m」の方へ足を進める。急坂を上った先には曲輪があり、更に上の方に一段、二段と石垣で守られた曲輪が連なっている。 写真
高嶺城 主郭
主郭最上部へ足を運ぶ。まずまず広い敷地で、地面には建物の礎石が残っている。解説版によると、ここには往時、敷地いっぱいに2棟の建物が建てられていたのだという。
眺望も見事で、山口の街を一望することができる。現地では気付かなかったのだが、後で写真を見ると平地の「大内氏館」もその景色の中に横たわっていた。 写真
高嶺城 主郭上部
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高嶺城 主郭から望む大内氏館
大内氏が大内氏を守るために築かれ始めた高嶺城だが、築城開始の翌年には毛利氏の侵攻を受け、大内義長は山口を放棄して逃亡した果てに自害する。高嶺城はその後、毛利氏の城として活用されたという。
下山は電波塔から、スタンプ設置場所や大内氏館により近い南東へのルートを採ろうと思っていたのだが、道が分かりづらく、結局途中で引き返して来る時と同じ南西ルートで戻ることになった。

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大内氏館跡 西門(復元)
途中の山口市歴史民俗資料館で続100名城のスタンプを頂いた後、大内氏館跡へ。大内氏が毛利氏に滅ぼされた後、館跡は毛利隆元により、大内義隆(義長の養父、陶晴賢の謀反により死去)の菩提寺に建て替えられたが、再現された池泉庭園、枯山水庭園、石組溝、築山跡、土塁や西門などが往時の様子を想像する手助けになってくれる。 写真
大内氏館跡に、大内氏の菩提寺として建てられた龍福寺
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大内氏館跡 池泉庭園
元々の計画では13時半迄に宿に戻って次の場所へ移動、だったのだが、思いの外短時間で済み、11時半には戻ることができた。私は一般よりも足が速い方だが、普通でも大体5時間もあれば大内氏館・高嶺城を併せて巡って戻れるのではないだろうか。
お陰で次の場所へのバスも予定より1時間45分も早い便に乗ることができ、次の街での城巡り・街巡りにもかなり余裕ができそうだ。

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