バス憧れの大地へ

世界への旅(旅行記)

大陸中国・重慶―三峡―赤壁

赤壁古戦場 ~噂の真相

2000年9月28日

さて、目指す赤壁古戦場はもうすぐ近くとはいえ、距離にすると40km。歩いて行く訳にはいかない。バスが通っているかどうかも分からないので、タクシーを使うことにした。
金鸞山鳳雛庵
金鸞山鳳雛庵

田舎道を1時間近く走っただろうか。車は小さな街にたどり着いた。小さな通りを右折し、さらに細い路地を少し行った所で、車は止まった。
赤壁の戦い後に劉備の軍師となった龐統(「三国演義」の中ではここ赤壁での戦いで魏軍を敗北に導いた「連環の計」を施したと書かれているが、史実ではない)の庵「金鸞山鳳雛庵」を少し見た後、いよいよ古戦場見学だ。
途中、どうでもいいような砦や迷路などで寄り道をさせられながら、木々の生い茂った小高い山道を歩いていくと、呉の名軍師・周瑜の巨大な石像が、睨みを利かせるかのように、長江の方に顔を向けながら、堂々とたたずんでいる。
周瑜像
周瑜像
さらに奥の方には「三国演義」で描かれている、偽装寝返りの工作のために呉の老将・黄蓋が周瑜に鞭打たれた「苦肉の策」の舞台となった望江亭があり、文字通り、長江を一望することができる。
周瑜像のある広場から階段を下れば、あの「赤壁」の文字が書かれた断崖がある。しかし、その断崖に関して、私は半年ほど前、気になる新聞記事を目にしていた。

赤壁 崩壊の危機

中国側の報道によると、三国志の古戦場として有名な湖北省の赤壁で、長江河岸の崖面に亀裂が入り、崖面に書かれた「赤壁」の文字のうち、「壁」の字が既に崩れ落ちたという。
これが本当だとしたら、えらいことだ。
今回、赤壁を訪れたのは、その真偽を確かめるという目的もあった。
石段を降りていくと、重慶や三峡で見たのとは桁違いに幅の広い長江が、眼前に水をたたえているのが見える。確かにこれなら、大船団が集った戦いの場となり得ただろう。
河の向こう岸が、魏軍が陣を張った烏林だ。あそこが、夜の闇の中、炎に包まれたのか ―― 想像力がかき立てられた。
そして、石段を下りきったところで右を見ると、問題の文字が刻まれた崖面がある。
果たして、そこにあったのは・・・。
赤壁
しっかり無事だった「赤壁」の文字
「壁」の字が無事だったなのはもちろんのこと、さしたる亀裂も見られない、以前に写真で見た通りの、威風堂々たる「赤壁」の文字だった。
あの記事の中の「中国側の報道」は一体、何を根拠に書かれたのだろうか。
訳の分からないガセネタに、振り回されてしまった。
ま、ともあれ、無事で何よりだった。後から創られたとはいえ、この文字こそが、赤壁のシンボルのようなものなのだから。 苦肉の策
「苦肉の策」を再現した群像=赤壁文物陳列館で
先程来た道を戻る途中、来る時には通り過ぎただけだった赤壁文物陳列館に立ち寄ってみた。
赤壁周辺の絵図や船の模型、「苦肉の策」など赤壁の戦いの名場面を彫像で再現した展示など、博物館の体裁を一応、整えている。しかし、建物の大きさに比べて、文物が少ない。出来て間もないためだろうか。今後の発展が期待される。
この他、ここには諸葛亮が風向きを変えるよう祈りをささげたという逸話の舞台となった「拝風台」もあるが、入り口が別になっていたこともあって見逃した。
まあ、あのエピソードは、私が嫌悪している、諸葛亮を超人であるかの如く描いた虚構の最たるものなので、特に残念とも思っていないが。
“三国志の聖地”でもう少しゆっくりしていたい気もしたが、明日の朝は帰国の便に搭乗しなければならない。手持ちの人民元も残り少なく、早く武漢に戻って、両替もしなければ。
私は赤壁古戦場を後にし、宿に預けていた荷物を受け取るや否や、バスターミナルへと向かった。

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