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日本100名城

100名城探訪記

九州北部100名城巡り(7)―名護屋城、平戸城

2022年5月5日

昨日、佐賀・唐津市内の唐津城を訪れたが、唐津にはもう一つ名城がある。但し、市の中心部からは少し遠い。この日の朝一番での来訪を目指し、宿に大きな荷物を預けてその地を目指した。
7時32分、唐津バスターミナル発のバスに乗り込み、東松浦半島を横切って玄海原発方面へ。そこから海辺をやや唐津に戻る方向に進んだところで、8時20分ごろ、目的地に到着した。
今回の城は、東松浦半島のほぼ先端に建つ、名護屋城(100名城No.87)。明国征服という誇大妄想に冒された豊臣秀吉が朝鮮出兵という暴挙に出た際に、その拠点となった城だ。
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名護屋城水手口
「名護屋城址」バス停で下りると、裏口に当たる水手口が目の前だ。ここから高台の上の城へと入る。
水手口の時点で既に立派な石垣を見ることができるが、その石垣に沿って進むと、更に立派な遺構が待ってた。遊撃丸、二の丸といった曲輪があり、その横に天守台が見える。更に馬場、三の丸経て本丸に上る。
名護屋城で一番広い本丸は、高台にあって展望も良く、秀吉がその先に朝鮮半島を妄想したであろう玄海灘を見渡すことができる。
(秀吉は名護屋城までは来たものの、自らは前線である朝鮮半島には渡っていない)
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名護屋城本丸
本丸の北西端に、先ほど横を通った天守台がある。本丸に比べると広さは無いが、ここに建っていた天守閣は5重だったと言われている。その最上階から望む玄界灘の眺望は、本丸からのものを遥かに上回る見事さだったことだろう。
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名護屋城天守台
石垣は残っているものの、建物は一切現存せず、再建もされていない。とはいえ、石垣の上に立っているだけで在りし日の姿を十分に想像することのできる、まさしく名城だった。
入る時とは逆側の大手口に出る。表口はこちらであり、大手口から入った方が参観ルートは分かりやすい。
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名護屋城大手口
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名護屋城博物館
大手口から国道を渡った先に、名護屋城博物館がある。ここでは名護屋城の概要や、朝鮮半島との交流史の展示がされてるほか、秀吉が聚楽第などで使っていて、名護屋城にも運んできたという、秀吉晩年の金ピカ趣味を象徴する金の茶室も再現されていた。

帰路はちょうどいい時間に直行バスが無かったので、ジャンボタクシーで呼子まで行って、そこからバスに乗り継いで唐津市街に戻る。
唐津からはJR唐津・筑肥線でまず伊万里へ。この日はここで泊まることにしていたので宿に荷物を預けて身軽にして、松浦鉄道に乗り換える。
降りた駅は、長崎県平戸市のたびら平戸口。全く知らずに来たのだが、この駅は、「(普通鉄軌道方式で、全国の各駅とレールでつながっているものでは)日本最西端の駅」なのだという。(この縛りが無ければ、日本最西端の駅は沖縄都市モノレール線の那覇空港駅)
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たびら平戸口駅
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平戸大橋
たびら平戸口駅は九州本土だが、平戸市の中心エリアは平戸島だ。バスで平戸大橋を渡って、目的地へと向かう。
辿り着いたのは、平戸城(100名城No.90)。平戸藩松浦氏の居城で、名護屋城と同様、海に面した高台に建つ平山城だ
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平戸城大手御門跡の石垣
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現存する北虎口門と狸櫓(右)
山の南側にある「平戸城登城口」から坂を上り、石垣の残る大手御門跡、乾櫓のある二の丸、北虎口門(現存)、狸櫓(現存)を経て、山の上の本丸へと行き着く。
平戸城は江戸時代中期の泰平の世の中に再建されたため、軍事的な要素は無い。天守閣も建てられず、乾櫓が代用とされていた。
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平戸城模擬天守
現在「天守閣」と呼ばれている建物は、元々は櫓が築かれていた場所に建てられた模擬天守だが、最上階から望む玄界灘の光景はやはり見事だ。
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平戸城から望む見奏櫓と玄界灘
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街から見た平戸城
平戸は歴史の教科書にも載る街なので、観光都市として発展していると思いきや、そうでもなかった。ゴールデンウィークにもかかわらず(コロナウィルスを考えても)人はそんなに多くもなく、窓口となるたびら平戸口駅とも接続はお世辞にも便利とは言えず、帰りのバスも直行は無く、駅近くの港まで行ってあとは駅まで歩くしかなかった。
他にも名所はあるので、市を挙げて観光都市としてもっとアピールしていいのではないか?

アルファポリス

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