バス憧れの大地へ

日本100名城

100名城探訪記

関西中部100名城(4)―宇陀松山城、千早城

2024年3月30日

奈良県桜井市の宿で1泊し、朝食を頂いてすぐにこの日1つ目の名城に向かう。
近鉄大阪線に乗って東へ。桜の名所・長谷寺を通過し、榛原駅で下車。大宇陀行きのバスに乗り換えて宇陀松山城(続100名城 No.166)に向かう。
宇陀松山城は宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城だ。戦国時代に豊臣秀長の大和郡山入りに伴い秋山氏は宇陀から退去し、その後改修が行われて天守閣もある近世城郭へと移行し、大和郡山城高取城とともに豊臣政権下の大和国支配の要となる。
宇陀松山城へ上るルートは

  1. 北側の春日門から上るルート
  2. 南側の「まちかどラボ観光案内所」裏手の「赤砂利ルート」から上るルート

の2つがある。1. の春日門は必見の場所である一方で、続100名城スタンプは2. のエリアに集中しているので、どちらか一方から上ってもう一方から下る必要がある。私が行った時間はまだスタンプ設置場所が開業時間前だったので、春日門ルートから挑むことにした。
「西山」バス停で下車して徒歩5分ほどで、まずは城下町の入り口に当たる松山西口関門(黒門)をくぐる。唯一残る当時の建築物で、国の指定文化財に指定されている。 松山西口関門
松山西口関門
宇陀松山城下の町並み。背後の山の上に城がある
宇陀松山城下の町並み。背後の山の上に城がある
黒門の先には趣のある木造家屋が建ち並んでいる。宇陀松山城下の重要伝統的建造物群保存地区の中には江戸時代当時の家屋も残っている。
その向こうに見える山が、宇陀松山城の縄張を頂く古城山だ。
程なくして、春日門に到着。当時の石垣が残る、宇陀松山城への山道の出発点である。
宇陀松山城春日門跡
宇陀松山城春日門跡
春日神社の石段の右側に延びる未舗装の道が、登山道だ。坂道を暫く上った後、階段に変わって更に傾斜を増す。
やがて、南側から延びている「赤砂利ルート」との合流点に到着。そこからもう少し山道を歩くと、土塁が見えてきた。左手に目を移すと、深く切り込まれた空堀を見ることもできる。 宇陀松山城の空堀
宇陀松山城の空堀
宇陀松山城雀門と大手口
宇陀松山城雀門(手前)と大手口(奥)
南西虎口部(雀門跡)から大手口に進む。このあたりには土の中から顔を出した石垣も見られる。
虎口郭を抜けて更に坂を登り切った先にあるのが、60m×40mほどの広さの本丸跡だ。当時は広間と5棟の殿舎から成る本丸御殿が建てられていたという。 宇陀松山城本丸跡
宇陀松山城本丸跡
本丸広場の更に奥の方にある一段高いエリアが、石垣が残る天守郭――即ち「天守」に相当する多重の建造物がかつて建っていたとされる郭(曲輪)である。 宇陀松山城天守郭
宇陀松山城天守郭
建物は一切残っていないが、はっきりと残っている曲輪跡や案内板に記された説明から、在りし日の姿に想像力を働かせる。
帰りは先程の分岐点から「赤砂利ルート」を通って下山。下り切った先の赤砂利交差点にある宇陀市松山地区まちかどラボで続100名城のスタンプを頂く。ここでは松山城の在りし日をCGで再現したビデオも見せて頂き、先ほど現地で想像力を働かせて思い浮かべた想像図を更に補完することができた。
先ほど登城前にちらりと見た重要伝統的建造物群保存地区はこのまちかどラボまで続いている。同じく続100名城スタンプの設置場所である宇陀市松山地区まちづくりセンター「千軒舎」は内藤家住宅を改修した古民家で、内部を見学することもできる。 宇陀松山城下の重要伝統的建造物群保存地区
宇陀松山城下の重要伝統的建造物群保存地区
千軒舎内部
千軒舎内部
赤砂利交差点からすぐの道の駅 ‎宇陀路大宇陀(ここも続100名城スタンプ設置場所)のバス停から来た時と同じ系統のバスで榛原駅に戻り、次の城を目指す。近鉄を大阪線・橿原線・南大阪線・長野線を乗り継いで、奈良県から大阪府へ移動。河内長野駅で下車して、金剛山ロープウェイ前行きのバスに乗り継いで金剛登山口で下車する。
ここにある名城が、千早城(100名城 No.55)。後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕計画に呼応した楠木正成が鎌倉幕府軍を迎え撃った城だ。これを機に日本全土で反乱が誘発されることになって倒幕が成るという大きな歴史的出来事の舞台になったことから100名城に選ばれている。
千早城も山城だ。途中の橿原駅で買った柿の葉寿司でしっかり腹ごしらえをして、バス停近くの大手口から登城に挑む。
大手口から延びる石段は千早神社の参道であると同時に、金剛山への登山道でもあり、かなり急だ。昨日高取城を登った疲れもあったので、トレッキングポール(ストック)の力を借りて進む。 千早城大手口
千早城大手口
千早城四の丸跡
千早城四の丸跡
急峻で長い石段を上った先には四の丸跡の広場があり、その先の道は先ほどの石段に比べれば平坦だ。続いて三の丸跡の広場に着くと「史跡 千早城跡」の石碑とそれを守るようにして鎧兜の人形が控えている。 千早城三の丸跡の石碑と鎧兜の人形
千早城三の丸跡の石碑と鎧兜の人形
更に石段を上がった先が二の丸跡の広場だ。その一段上の祠がある場所に「本丸跡」の札が見られたが、実際の本丸跡はその背後にある。但し神社により立入禁止になっているため、城巡りができるのはここまでだ。
千早城二の丸跡。この背後が本丸
千早城二の丸跡。この背後が本丸
千早城は曲輪の跡が分かるという程度の城跡で、石垣や土塁といった城らしい要素がほぼ無い。建物も神社の祠ばかりで、やはりこれまで接してきた「城」らしさには欠ける。
歴史上重要な出来事があった城だということ、堅牢な城だということ、南北朝時代の城であって戦国時代や江戸時代の立派な城と比べるのは気の毒だということ、は理解できる。しかし、それにしてももの足りない。楠木正成や南朝のファンならテンションも上がるのだろうが、私はそうではないのでそちらの方面でも気持ちが盛り上がらなかった。
帰りは三の丸と四の丸の間から横に延びている裏参道を経由して、その先で突き当たった林道を下る。その終点にある金剛山 山の豆腐が100名城スタンプの設置場所。ここに行くには裏参道が近道だったのだ。
スタンプを頂いて、千早城でのミッション完了。少し離れて、スタンプの絵柄にもなっている千早城を頂く山の全景を望んだ後、私は帰りのバスに乗り込んで河内長野駅へと戻った。 千早城が建てられた金剛山中腹
千早城が建てられた金剛山中腹
当初の予定ではこの日の城巡りは千早城で終わりだったが、河内長野駅までの電車の乗り継ぎが計画よりもスムーズにできたお陰で、予定よりも1時間前倒しで千早城巡りを終えることができた。これなら翌日に回す予定だったもう1つの城も訪れることが可能になったので、私は次の城を目指すことにした。

アルファポリス

コメント(0)

コメントする

<新着記事>

Google

WWWを検索a-daichi.comを検索
お勧めメディア(Amazon)
チベットの大地へ