バス憧れの大地へ

世界への旅(旅行記)

大陸中国・西安―河南―北京

円明園ほか ~帝国主義の爪痕

1993年12月26日

この日はまず、翌日の観光の下準備。 八達嶺長城最寄りの火車駅・青龍橋站(駅)までのチケットを買うため、北京北站へと向かった。
しかし、切符の発売状況を示す掲示板には「無」の文字がビッシリ…。
(仕方ない。北京站の外国人専用窓口を使うか)
あそこを利用すると、(外国人料金なるものがあった当時)手数料も含めて人民料金の3倍ほどかかってしまう。しかし当時、私は八達嶺に行く術を、鉄路以外には知らなかった。今から新しいアクセス方法を考えるのも面倒だ。料金には目をつぶることにしよう。
雍和宮
雍和宮
国子監
国子監
北京站の外国人専用窓口で無事、目的のチケット(軟座)を手に入れた後、中心街に来たついでに雍和宮孔廟国子監などを訪れることにした。
しかし、これらのスポットについては、これもまた”記憶の風化”なのかもしれないが「中国らしい、朱塗りのちょっと派手な建物だな」ということ位しか、印象に残っていない。雍和宮では、チベット仏教寺院であるにもかかわらず「変わった仏教寺院だな」などと感じていた始末だ。
孔廟や国子監に至っては、訪れたこと自体、この旅日記を書くために当時の日記や写真を読み返すまで、忘れていた程だ。
考えてみると、私は個人的に、それらの歴史的な背景やイメージをあまり把握していなかった。だから、印象が薄かったのだろう。決して、レベルの低い観光スポットであった訳ではない。
もう一つ、このへんの印象が薄かった理由があるとすれば、 円明園
廃墟と化した円明園
円明園
この日、この後に訪れた場所のインパクトが、余りにも強かったから、ということがあるかもしれない。
その場所が円明園だ。
前日訪れた頤和園のすぐ近くにあり、本当ならセットで行くのがベストだったが、まあ、昨日は昨日で楽しめたので、それは言うまい。
入場券には、清代にベルサイユ宮殿を模して造られたといわれる往事をしのばせる、空から見た全体像の絵が印刷されていた。
しかし現在は、1860年に始まった第2次アヘン戦争(アロー戦争)で英仏連合軍によって無惨に破壊され尽くした、廃墟が残るばかり。産業革命を経て、アフリカへ、アジアへと暴走したヨーロッパ諸国の商業主義=帝国主義の爪跡だ。
折しも、夕刻。赤い夕日に照らされた石造りの廃墟は、哀愁を一層、際だたせていた。
円明園も復元作業が進んでいるというが、広島の原爆ドーム同様、この円明園や、廬溝橋の弾痕などは、忌まわしい戦争の生き証人として、このままの姿でいてほしい気がする。
それに、元々の出来が良かったからか、破壊され尽くしたにもかかわらず、ギリシャのパルテノン神殿を彷彿とさせるような美しさと荘厳さを、なお留めている。
「廃墟になったからこそ美的な価値がある」というのは言い過ぎだろうが、そんなことをふと思ってしまう程、現状でも十分、“戦争の爪跡”ということを抜きにしても、見るに値する。
この廃墟を美しく見せているのは”哀愁”というやつなのかもしれない。

<新着記事>

Google

WWWを検索a-daichi.comを検索
お勧めメディア(Amazon)
チベットの大地へ