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世界への旅(旅行記)

アジア周遊第3部 チベット

チベット巡り総括 ~仏教心とFree Tibetの思いの芽生え

異例のこととなるが、ここで今回のチベット旅行を総括したいと思う。

チベット訪問は2度目となったが、物珍しさだけのミーハー気分でラサに数日滞在しただけの初回とは全く意義の異なる訪問となった。
まず第1に、期間の長さがある。
これは、ギャンツェ・シガツェ等を経てネパールへ向かう仲間が中々見つからなかったという事情もあったが、思いがけず足掛け22日間チベットに滞在することになった。しかし、長すぎたという感覚は全く無い。その分、チベットを以前よりも深く感じることができて良かったと思っている。むしろ、ビザの期限さえ無ければもっと長期間滞在していたことだろう。
第2に、ラサ以外の街を見ることができた。
ネパールへ行く途上での急ぎ足の訪問しかできなかったが、それでもギャンツェ、シガツェ、ティンリー、ダムといった街を少しだけとはいえ見ることができたのは大きな収穫だった。中国の侵食が深刻なラサに比べ、これらの街にはまだ純チベット的な雰囲気を感じることができたのである。

一番大きかったのは、2つの側面で価値観が変わったことである。

1つは、宗教に対する考え方である。
それまでの私は全くの無宗教(但し、断じて唯物論者ではない。超越的な力の存在そのものは何かしらあるかもしれないとは思っていた)だった。寺院で賽銭を投げてお祈りをしたりおみくじを引いたりしたことは幾度となくあるものの、それは形だけのお参りに過ぎなかった。
しかし、チベット仏教にはなぜか強く引き付けられ、いつの間にか仏像等の前に立つとかなり真剣に祈りを捧げるようになっていた。ある時「仏が光臨した」と思わせるくらいタイミングのいい出来事があり(冷静に考えれば単なる自然現象の偶然なのだが)、その時以来、神仏の存在をそれまでの数倍強く信じるようになる。
チベット仏教の信者になったのか、と聞かれればそれは"No"である。とはいえ、人々が宗教を信仰する気持ちが少しだけでも理解できるようになったこと、そして「宗教は?」と聞かれれば迷わず「仏教」と答えられるようになったのは大きな進歩であるように思う。

そして、これが一番大きかった。チベット問題に対する意識が高まったこと、中国に対する考え方が決定的に変わったことである。
初めてチベットを訪れた時にも、中国がチベットを武力で占領したことに対する不信感は既にあった。それでも当時はまだ、「チベットが中国の一部になっていることは否定できない」と思っていた。
また、1989年の天安門事件の時から既に、中国共産党に対する不信感は芽生えていた。それでも中国の歴史・伝統文化に対する憧憬の念は根強く(これは今でも変わっていない)、2001年からはもっと中国を理解したいという思いから中国・大連で留学、就職するに至っている。
それが今では、完全な“Free Tibet”に転じるに至っている。引き金となったのは、チベットの象徴であるポタラ宮が中国人居住区のど真ん中にあり、ラサのチベット人居住区が片隅に追いやられているという事実に気づいたことだった。これを機に、「チベットに中国人は要らない」という思いが一気に膨らみ始めた。

但し、100%の"Free Tibet"となるのは、旅を終えて帰国した後、2008年3月の"チベット騒乱"が起きて以降、それまで薄々としか認識していなかった中華人民共和国によるチベット人虐待、チベット文化とチベット民族抹殺の陰謀がはっきりと見えるようになるのを待つことになる。(本旅行記を読むと当時既にそれが確立しているかのように思われる記述もあるが、それは旅行記を書いている時点[2008年6月~8月]での『チベットが中国の一部であるとは断じて認められない』という思いが反映されているもので当時の実際の認識とはズレがある部分も少なくないことをご了承頂きたい)
現状を考えると親チベットと親中は相容れないものであり、親チベットに傾倒した以上中国に対する感情が悪化するのは必然である。それまでくすぶり続けていた中共に対する不信感も爆発してしまった

かつて私は、「中国で一番良かった街は?」と聞かれると、うかつにも「ラサ!」と答えてしまっていた。深く自己批判せざるを得ない。
今は、「一番良かったは?」と聞かれれば迷わずこう言うだろう。
チベット!」と。

※一つだけ補足すると、私が嫌悪するのは飽くまで中国共産党=「中華人民共和国」であって、先述したようにそれ以前の中国が培ってきた躍動感ある歴史、奥深さのある伝統文化に対する憧憬の念は今も変わらない。

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