山形・新潟100名城(5)―鮫ヶ尾城、高田城
2025年8月11日
春日山城の登城を終えて、妙高はねうまライン春日山駅を出発し、10時17分、北新井駅に到着。ここから次に目指す城・鮫ヶ尾城(続日本100名城 No.133)への拠点となる斐太歴史の里 総合案内所へは公共交通機関が無い。私は城巡りで公共交通機関以外の自動車(レンタカーやタクシー)には頼らないことにしているので、約3㎞の道のりを歩いて進んだ。幸い、春日山城巡りをしていた時に降っていた雨はこの時、やんでくれていた。
鮫ヶ尾城は戦国時代に築かれた上杉・長尾氏の巨大な拠点山城だ。上杉謙信の死後に上杉景勝と上杉景虎の間で勃発した跡目争い・御館の乱の舞台となった城で、上杉景虎は城主である堀江宗親に迎え入れられてこの城に入るが、最後は景勝軍の総攻撃を受けて落城し、景虎は自刃する。
斐太歴史の里 総合案内所斐太歴史の里は鮫ヶ尾城巡りの拠点であると同時に、弥生時代の歴史の里でもあり、到着すると竪穴式住居が出迎えてくれる。
総合案内所でスタンプを頂いた後、スタッフから城跡巡りの注意事項があった。
「熊の目撃情報があるので、熊鈴を鳴らして歩いて下さい」
「スズメバチにも気を付けて下さい」
「雨が降った後なので、ぬかるみに気を付けて下さい」
いろいろと注意しなければならなさそうだ。持参してきた熊鈴を装備して、いざ出発。
鮫ヶ尾城の登城道は3つあり、総合案内所からは東登城道と北登城道が近い。私は多くの遺構が残っているという東登城道経由で登城を開始した。
山道を上り進むと、行く手に横たわる堀切を幾つも越える。私は軽装だったからよかったが、武具をまとっていたと考えると、この城を攻めた景勝軍の武者たちはどれだけの苦労を強いられたことだろう。
鮫ヶ尾城 一の丸跡
鮫ヶ尾城 堀切6東登城道に点在する曲輪の中でも一際大きい「一の丸跡」を通過し、その先に横たわる「堀切6」を越える。東登城道は全般的にそこまでの急登ではないが、堀切6のすぐ先に唯一、ロープが設置された急登が立ちはだかっていた。しかし、そこを越えてしまえば核心部分はもう間もなくだ。
ロープの急登から本の少し進むと、右手に本丸の高台が見えてくるが、最重要部は最後に回して、まずはその周辺の三の丸跡、井戸跡、二の丸跡などを巡る。
鮫ヶ尾城 三の丸跡
鮫ヶ尾城 井戸跡鮫ヶ尾城は御館の乱で景虎が敗死した際に焼失したとされるが、三の丸跡での発掘調査では、形を留めた握り飯が炭化した状態で見つかっているという。
鮫ヶ尾城 本丸跡それらの遺構を巡った後、満を持して本丸へ。堀切の斜面に設けられた坂道を上った先には、これまでのものと比べて一際大きい曲輪が横たわっている。ここが「城山」の山頂だ。「鮫ヶ尾城碑」やあずまやが設けられ、東の方に妙高の街並みや田園を見渡すことができる。
鮫ヶ尾城 本丸跡上部
鮫ヶ尾城 米蔵跡本丸に隣接する場所には、米蔵跡とされる曲輪がある。斜面を下って、上って移動してみる。先程、三の丸跡の炭化おにぎりについて触れたが、この米蔵跡でも、焼け焦げた米粒「焼き米」が見つかっていて、よく探すと今でも見つかることがあるという。
では、本丸に戻るか、とまた斜面を上り下りしようとした時、気が付いた――本丸と米蔵の間のこの上下する斜面も、堀切だったのだ。これまで鮫ヶ尾城で見てきた堀切の中でもとりわけ深く、往時の姿をくっきりと留めている。
鮫ヶ尾城 本丸跡(右)と米蔵跡(左)の間に横たわる堀切鮫ヶ尾城をひとしきり楽しんだ後、帰路は北登城道を下って総合案内所に戻る。私の脚で40分の城巡りだった。熊にも、スズメバチにも、ぬかるみにも遭遇しなかったことを報告しておいた。
外のベンチで軽く昼食を取った後、次の城を目指して北新井駅へと来た道を戻る。
北新井駅から北へ2駅の高田駅で下車。ここでもちょうどいいバスが無く、城跡までは徒歩になった。
高田駅から歩くこと15分程、蓮が群生する50m以上にもなる帯が見えてきた。南に方向を変えてその帯沿いに足を進めたところにある、朱色が鮮やかな西堀橋を渡ると、そこはもう城跡の核心部だ。
高田城 外堀の西堀橋と蓮その城は、高田城(続日本100名城 No.132)。歩いてきた蓮の帯は、この城の外堀だ。
高田城は江戸時代初期、徳川家康の六男・松平忠輝(長沢松平家)の居城として天下普請により造られた平城である。大坂の陣や忠輝の改易などのゴタゴタが続き、石垣を築く余裕は無く土塁のみとなるなど、築城はなかなか進まなかったが、1624年に入城した松平光長により天守代用の櫓がようやく建てられた。1665年の高田地震で倒壊したことで櫓は3階の三重櫓に建て替えられる。
明治に入り、火災や廃城令で建物は失われ、現在も本丸は北半分以上が学校、二の丸はほぼ全域が学校や博物館など、三の丸はほぼ全域が運動公園の敷地になっているが、現存する堀や土塁、再建された三重櫓や極楽橋が、ここがかつて城であったことを明白に物語っている。
先程は外堀で蓮の花を楽しんだが、春先は桜の名所である史跡公園になっている。
高田城 極楽橋
高田城 三重櫓内堀内の本丸の北西隅に建つ三重櫓にお邪魔して、続100名城のスタンプを頂く。
三重櫓は上越市の20周年記念事業として木造復元されたもので、史料・発掘調査をかなりしっかりと行った上での復元らしいので、往時もほぼこの見た目だったと思ってよさそうだ。
高田城 三重櫓この日は祝日で、もう1つのスタンプ設置場所・上越市立歴史博物館では続100名城のスタンプは頂けないとの情報だったが、行ってみるとこの時は軒下に設置されていたテーブルにしっかりと置かれていた。
博物館の側に来たところで、鮫ヶ尾城、高田城を巡っていた間は小康を保っていた雨がにわかに強くなってきた。高田城の見るべき所は既に見終えていたので(前日新発田城を巡っていた時と全く同じ状況)、ここで高田駅に引き返すことにした。
直江津に戻って宿に預けた荷物をピックアップし、今回の城巡りは終了。しかし、この日はまだJRを利用しておらず、「青春18きっぷの旅」はここからだ。
JRの普通・快速列車だけでも自宅最寄に戻ることは時刻表上、可能だったが、少し遅延したら乗り継ぎに難が発生するギリギリのダイヤだったので、犀潟~越後湯沢間は近道になる第3セクターのほくほく線を別料金で利用するという安全策を取った。
越後湯沢からはJR上越線で、途中水上で乗り継いで、ちょうど1年前に名胡桃城、沼田城等を巡った時のルートを再び辿って群馬・高崎を目指した――のだが、沼田を過ぎたところで、私が乗っていたまさにその列車が「動物(鹿)と衝突」を起こして、一時運転見合わせ。運転再開はしたが高崎で乗り継ぎを予定していた高崎線の列車の発車時刻には僅かに及ばず――しかし、高崎線が上越線の到着待ちをしてくれたお陰で、予定の列車に無事乗車。その遅れも取り戻して頂け、無事予定通りの時刻に帰宅することができた。
※1日分残った青春18きっぷは、翌日も休みを取って出掛けることできっちり利用した。
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