バス憧れの大地へ

世界への旅(旅行記)

ラダック、北インド(2011年)

デリー」の記事

デリー・空港メトロ

2011年10月22日

かつてのデリーでは、空港へ行くのにタクシーやリキシャを使うしかなかったようだが、今では空港メトロがニューデリー駅から出ている。
ニューデリー駅東側にある入り口から、通常のメトロとは違う通路を歩いて、空港かと思ってしまうようなセキュリティチェックを受けた中で切符を購入。空港までは80ルピー。

速い(空港まで僅か15分!)
安い(メインバザールからのタクシー250ルピーの僅か3分の1!)
快適(エアコン完備の最新車両!)

で、込み具合は・・・
デリーの空港メトロ内部
ガラ空き・・・
時間帯にもよるのかもしれないが、これだけ空席が目立つと赤字路線になって廃線の憂き目とならないかと心配してしまう。

いずれにせよ、メインバザール(パハルガンジ)を目指す旅行者にとっては嬉しい改善と言うことができるだろう。私も、メインバザールから帰りの空港へ向かうのに速く、安く、快適に利用させていただいた。

但し、このメトロのニューデリー駅出入り口が、国鉄駅の東側にあるというのが落とし穴。先日書いたように、メインバザールのある西側から東側へは国鉄駅の歩道橋を渡って行くことができるが、逆の東側からは歩道橋に入ることができないので、空港からメインバザールを目指す場合はリキシャなどで遠回りしなければならないので、ご注意を。

旅の締めくくり~ガンディー詣で

2011年10月22日

デリーは私にとって、インドの首都というよりもマハトマ・ガンディー最期の地という意味合いの方が強い。先に書いたマクドナルドの記事とは話が前後になるが、この日昼前から日本人6人でガンディー詣でに出かけた。

最初に訪れたのは、数日前にも訪れた、ガンディー火葬の地・ラージ・ガートだった。ここで馳せたガンディーへの思いについては数日前の記事の繰り返しになるのでここでは書かないが、この日訪れた黒大理石の記念碑は、祭りが行われる影響からか、数日前には無かった色とりどりの花で飾られていた。ガンディーがいかにインド人に慕われているかを伺い知ることができる。
ラージ・ガート

ラージ・ガートを再び訪れたのは、ガンディーの“墓参”(墓がここにある訳ではないが)をもう一度、という思いからだけではない。近くにあるガンディー博物館を、4年前に続き2度目ではあるが訪れたかったということの方がむしろより強い動機だった。
ガンディー博物館
比較的裕福な環境で育ち、イギリス留学もしながらその後は対英独立闘争に心血を注いだガンディーの、若かりし頃から独立闘争、そして暗殺に至る足跡が幾多の写真や記念品で語られている。暗殺された時の血染めの布や弾丸、懐中時計の展示も彼の死の瞬間を生々しく物語っている。
今回の訪問で印象に残ったのが、ガンディーの写真によく出てくる糸巻き道具の展示だった。彼は糸巻きの技術によって貧しい村を援助したのだという。アウトカーストの人々を「ハリジャン=神の子」と呼んで慈しんだ彼の、恵まれない人々に対する思いやりの心がそこに垣間見える。

これら2つの施設とは離れた場所になるが、インド門の南西に位置するガンディー記念博物館の方にも訪れた。ここは、インド・パキスタン分離独立の直後にガンディーが暗殺された場所である。中庭には、ガンディーが最後の祈りに向かった足跡が再現され、その足跡が途絶えた場所、即ち暗殺された場所には記念碑が建てられている。
201110220203.jpg

ここも4年前に訪れた場所なのだが、ここではその時感じたことを再掲することにする。

ガンディーは独立を達成して僅か半年のインドの今後に思いを巡らせつつ、再現された跡の足取りでここを歩いていたに違いない。そして、彼は死の際に「おお神よ!」との言葉を残したという。
彼は神に何を祈ろうとしていたのだろうか。
 「インドをお守り下さい」・・・
 「世界に平和を」・・・
想像は幾らでもできるが、もはやそれを知ることはできない。
いずれにせよ、インドがこれからという時に降りかかった災いは彼にとって無念極まりなかったことだろう。この足跡がこの場所で途切れてしまっているのは、彼がまだ道半ばであったことの象徴ではないのか ―― そんな気がしてくる。
その無念を、今のインドは晴らしてきてくれただろうか。現在のインドは産業が急成長を遂げていて世界の大国になりつつあり、もはや他国から抑圧を受けることはなくなっているが、一方でガンディーが反対していたカースト差別、殊にハリジャン(不可触民。カーストの最下層)への差別は今なお解消されてはいないのである。

2007年アジア周遊『デリー-3 ~ガンディー最期の場所』より

この日訪れた3箇所はいずれも既に1度訪問済みの場所である。それでも最終日にここを再訪したのは、インドの旅をデリーで終わりにする以上、自分にとって締めくくりはこれらの場所以外にあり得なかったからだ。
マハトマ・ガンディーは世界の歴史上で私が尊敬する数少ない人物の一人である。大国の抑圧に苦しむインドの人々の先頭に立ち、非暴力という手段ででインド独立を勝ち取った人物――その姿は、私が心を寄せ、現状を憂いているチベットに一つの光明を与えてくれるような思いがするのだ。
勿論、インドとチベットでは時代が違えば支配する側、される側の国の事情も違う。しかし、大きな共通点が、どちらも非暴力という手段によって自由を模索している点である。ガンディーの足跡が、今後のチベットにとって一つのモデルケースになることを、私はどうしても期待してしまうのだ。

だから、デリーでインドの旅を終えるならこれらの場所を締めくくりにする以外考えられなかったのだ。
次にデリーで旅の締めくくりがあった時も、私はやはりこれらの場所を最後に訪問することだろう。

今回の記事で、現地からの旅レポートもまた締めくくりとなる。
しかし、『ラダックから』というタイトルをつけながら、気がつけばラダックにいる期間とそれ以外のインドにいる期間がほぼ同じになってしまった。
帰国後ももう少しだけ、ラダックにスポットを当てて今回の旅の纏め記事のようなものをこのブログ上で書いていきたいと思う。

取りあえずは、

ラダックよ、ダラムサラよ、インドよ、またいつか。

インドのマクドナルド

2011年10月22日

ご存知の通り、インドでは宗教上の理由で牛肉が食べられない。
しかし、マクドナルドは普通にある。勿論ビーフハンバーグは無く、チキンバーガーかフィレオフィッシュぐらいしか選択の余地は無い。
前日偶然知り合った日本人2人組から芋づる式に増えた6人の日本人と、この日昼にコンノート・プレイスにあるマクドナルドへ試しに行ってみた。
コンノート・プレイスにあるマクドナルド

店内は、並んでいる客の多さの割には座席が少なく、かなりの混雑ぶり。私たちも店内で食べることは諦めてテイクアウトして外で食べることにした。

どれにしようかな?と少し考えて、名前が一番派手な「マハラジャ・チキンバーガー」のセットを注文した。
マハラジャ・チキンバーガー

まあ、普通にダブルバーガーなのだが・・・

インドのマクドナルドは不味い、とよく言われるが、このハンバーガーはそうでもなく、普通に完食することができた。まあ、味付けはやはり微妙にインド風味ではあるが。

ただ、
冷たいドリンクには普通に氷が入っている。
ハンバーガーには普通に生野菜が入っている。

帰国を目前に、腹を壊したりしないかちょっとだけ心配・・・

ニューデリー駅とメインバザール

2011年10月21日

明日の帰国の際には、新しくできた空港メトロでデリー空港に向かう予定である。念のため、ニューデリー駅東側にある駅に行って、場所と最終電車の時間を確認した。午後9時にはメトロに乗りたいと思っていたところ、最終電車は11時半だという。それなら全く問題ない。

ところで、ニューデリー駅西側にあるメインバザールと駅東側にあるメトロ駅の移動に若干の問題がある。
メインバザールからニューデリー駅東に行くには、駅構内の歩道橋を歩いてしまえば問題ない。問題があるのは、逆の駅東からメインバザール方面へ行く場合である。西から入ることができる歩道橋が、東からは2つある歩道橋の両方とも「No Entry(入っちゃダメ)」になっているのである。入り口にはしっかり警官が見張っているので隙を見て入ってしまうことも困難だ。

で、コンノート・プレイスを経由するというとてつもない遠回りをさせられる羽目になる。
歩きなら、コンノート・プレースを1区間時計と逆回りすればいいだけなのだが、コンノート・プレースは言わば大きなロータリーで、車両は時計回りにしか進むことができない。歩きなら1区間で済むところをタクシーやリキシャだとほぼ1周しなければならない。
この時私はメトロ駅で偶然知り合った日本人男性2人組と一緒にオートリキシャに乗ったのだが、歩道橋を歩けば5分で済むところをエンジン付きの車で10分ほどかかってしまった。ちなみに料金は、80ルピーの言い値を70ルピーに値下げさせた。

余りに不合理。余りに不条理。
もう少しどうにかならないものか・・・

クシナガル~ゴラクプル~デリー

2011年10月21日

クシナガルからデリーへの帰途は、最寄り鉄道駅のゴラクプルを経由してとなった。クシナガル~ゴラクプルの間は50kmほどだが、道路はかなり整備されていて1時間半ほどでスムーズにゴラクプル・ジャンクション駅に到着することができた。

ところが、その駅でアクシデントが発生した。
私が乗るはずだった10月20日の22時5分発の列車がなかなか来る様子が無く、待っているうちに日付が変わってしまった。駅の管理室に行って尋ねてみると、23時30分に出発してしまったという。駅の列車情報TVモニターをじっと見ていたが、その列車番号は1度たりとも表示されることがなかったにも関わらず、である。あり得ない・・・
じっとしていても仕方が無いので、駅員に他のデリー行きの列車へ案内してもらったが、運賃をもう一度払わなければならなかったのは言うまでもなく、上のランクのACスリーパー(エアコン付き寝台)しか空いておらず予定よりも高い金を支払う羽目になってしまった。

しかし、この列車に替わったことはむしろ吉と出た。
まず、本来乗る予定だった列車はデリー行きはデリー行きでもデリーのどこにあるかよく分からない駅へ行くものだったのに対し、替わった後の列車は宿泊予定地のメインバザールまん前のニューデリー駅に到着してくれた。
次に、実際に乗った列車(特急)がインドの列車の割にはスムーズに走ってくれて、午後2時すぎにはニューデリーに到着。ゴラクプルの時点で既に1時間半遅れていた、デリーのどこかの駅12時半到着予定の本来の列車(恐らく祭り期間の臨時便ではないかと思われる)よりもむしろ早くデリーに到着したのではないかというくらいなのである。
ACスリーパーの車両は、構造こそエアコン無しのスリーパークラスと変わらないが、乗客が若干少ない分スリーパークラスよりもゆったりとした感があり、乗っているお客もスリーパークラスのようにタチの悪い奴が交じっていない分安心感があった(こういう言い方は余りしたくないのだが、4年前にスリーパークラスでデジカメを盗まれたトラウマがあるもので・・・)。

ともあれ、予定通りの日付でデリーに戻ることができた。
数日前と同じHare Rama Guest Houseに入り、この日は明日(実際には日付が変わって明後日)夜の帰国に向けて、休養と準備をするばかりだ。

デリー(2)~帰国日確定

2011年10月17日

宿をチェックアウト後、昨日行ったDELHI TRAVELに迎えの車つきで出向く。
帰りの航空券の日付変更、クシナガル訪問のための列車の切符の確保などで昼すぎまで拘束されたが、まあ、デリーではもう余りうろつく気はしないので、時間潰しもできたし、昼食やチャイを奢ってもらったからこれでいいだろう。

なお、帰国日は10月23日に確定した。

午後3時、ようやくニューデリー→バラナシの列車のチケットが確定。その後は旅行社のすぐそばにある、イギリス統治時代の名残りが残るリングロードのコンノート・プレイスや、ニューデリー駅前の安宿街メイン・バザールパハルガンジ)でゆったりと過ごす。(もっとも、やかましいので気持ちは余りゆったりとはならなかったが)
コンノート・プレイス
コンノート・プレイス メイン・バザール
メイン・バザール 列車は18時45分、ニューデリー駅発。車両は格安寝台のスリーパー・クラスだ。
ニューデリー駅
ニューデリー駅

まずは、僅か一泊ではあるが、4年ぶりのバラナシが私を待っている。

デリー(1)~デリー巡り

2011年10月16日

デリーは前回の訪問でもう十分で、今回も単なる中継地点としてしか考えていなかった。しかし、クシナガル行きなどでお世話になるDELHI TOURSで、「サービスで今日の午後の間デリーの街巡りをつけてあげる」という話になった。デリーでもまだ知らない場所はあるので、せっかくなのでお言葉に甘えることにした。

<クトゥブ・ミナール>
クトゥブ・ミナール
デリー中心部から南へ15kmほどの場所にある、実に800年以上の歴史を持つデリー最大・最古のミナレット。ヒンドゥーの様式にも見えるが、奴隷王朝のスルタンであるアイバクが建てたイスラムの建築。塔のほかにも周囲に幾つもの遺跡があり、なかなか見ごたえがあった。

<ロータス・テンプル>
ロータス・テンプル
その名の通り蓮の花の形をした、シドニーのオペラハウスのパクリかと言いたくなるような寺。バハイ教という新興宗教のものらしい。中に入るには靴を預ける必要があるが、観光客が多すぎ預かり所がごった返しているのを見て、中に入るのはやめて外から眺めるにとどめた。

<ラージ・ガート>
ラージ・ガート
ここは前回もメインストリートから眺めつつも入り口が見つからずに中に入れなかった場所なのだが、実は入り口はメインストリートから中に入るわき道の方にあった。
ここは、インド独立の父マハトマ・ガンディーが暗殺された後に火葬された場所である。大理石の平らな記念碑の傍らで燃える炎はその時から燃え続けているという。ガンディーのインド独立の精神が今なお続いているのを象徴しているかのようだ。
前回の旅の時から心残りの場所だったが、今回訪れることができてよかった。尊敬する人物の一人であるガンディーの魂に、信仰は違えど私は敬意を表して深く祈りをささげた。


このツアーに対し、まだ見ぬデリーの見どころを見せてくれたことに感謝の意は表したいところだが、残念なことも少なくなかった。

・土産屋に連れて行くな!
まあ旅行社のツアーにはつきものなのだが、買い物する気は全くの0%なので、連れて行かれるだけでテンションが下がる。私を土産物屋に連れて行くことほど無駄なことは無いというのに・・・

・高いレストランに連れて行くな!
外国人旅行者が皆、リッチだと勘違いしていないか? 私はバックパッカーだぞ。

・高いチップを要求するな!
確かこの日のデリー巡りは「サービス」と説明されていたが?

ダラムサラ―デリー

2011年10月16日

ダラムサラから夜を徹してインドの首都デリーへと向かうバスは、VOLVOバスとデラックスバスの2種類があった。私はエアコンが無く、リクライニングも並であるランクが下のデラックスバスを選んだが、これで十分。この時期はエアコン無しでも車内の室温はちょうどよく、リクライニングも浅すぎることなくちょうどいい塩梅だった。尻だけはちょっと痛くなったが、そんなにクッションが利いていない訳でもない。

午前6時すぎ。バスはデリーのチベット難民キャンプがあるマジュヌカティラに到着。他の外国人3人でメインバザールまでオートリキシャを相乗りする。しかし、インドのリキシャワラーはタチが悪い。メインバザール手前の場所にある、つるんでいると思われるホテルの前に泊まって、「さあ、こちらのホテルにどうぞ」とくる。しかし、甘く見てはいけない。私と更にもう1人、既にメインバザールを知っている乗客がいたのである。
「ここメインバザールちゃうやろ!」(勿論英語で言ったのだが、なぜかここでは関西弁で書いてみた)
と言うと、リキシャワラーは笑ってごまかしながら、最終的にはメインバザールまできちんと行った。

リキシャが停まった所のちょうど近くに、宿の候補と考えていたAjay Guest Houseがあったのでまずは行ってみたが、エアコン無しでも500ルピーと少々高い。向かいのHare Rama Guest Houseのフロントを覗いてみると「エアコン無し300ルピー」となっている。部屋もそんなに悪くなかったので、こちらに泊まることにした。

さて、帰国の途に就く前に、もう1か所、今回行っておきたい場所があった。ブッダ入滅の地・クシナガルである。前回のインド・ネパール訪問で、生誕の地・ルンビニ、苦行の地・ラージギル、悟りの地・ブッダガヤ、初説法の地・サールナートには既に行っていたのだが、どういう訳か入滅の地だけ行きそびれていた。今回のインド訪問でどうしてもその穴を埋めたかったのである。
列車でゴラクプルまで行ってそこからバスでアクセスするのが便利そうだったので、ニューデリー駅に行って切符を買いに行くか。と、それよりも、予想通りの展開ではあったが、日本でとった復路の日付が変更可能な航空券の予定日よりもやはり早めの帰国となりそうだ。こちらの変更手続きを先にやっておくか。

そこで、コンノート・プレイスにあるジェットエアウェイズのオフィスに向かったが、どうやら元あった場所から移転した模様。同じコンノートプレイスのGブロックに移ったと聞いたのでGブロックに行ってみたが――はてどこだろう。
あ、「ツーリストインフォメーション」の看板がある。あそこで聞いてみよう。

ところが、場所を聞くつもりだっただけのそのツーリストインフォメーション――ではなく、DELHI TOURSという旅行社だった――で、結局日付変更の手続きをすることになった。よく考えたらこの日は日曜日。航空会社のオフィスも今日はCloseなのだ。それならここでやってしまった方がいいだろう。
ところで、私がとった航空券は純然たるオープンチケットではなく、「復路のみ、空席があれば、目的地以降1回のみ無料で変更可。経路変更は不可。 *現地で変更事務手数料が別途かかる場合があります。」というものだった。その「現地で変更事務手数料」というのが曲者で、これに結構な値段がかかってしまった。

そして、クシナガル行きも、ニューデリー駅の外国人専用チケットオフィスが日曜で閉まっているらしいこと、現在インド全体でフェスティバルが行われていて列車のチケットが手に入りにくいとのこと、ゴラクプルからラージギルのバスが予想以上に少ないようであることなどから、こちらでお世話になる流れになってしまった。
最初は行きも帰りもゴラクプル経由で行く方向で話を進めていたのだが、
「クシナガルなら、バラナシから車でアクセスする方がいいですよ。途中に他の仏教遺跡もありますし」
と、日本語の達者なベテラン職員が横から入ってきた。
そういうことなら、デリーから夜行列車でバラナシに行って、翌朝到着したら車でクシナガルへ・・・

待て待て待て。
バラナシに行くなら、素通りはしたくないぞ!

ということで、
 1日目 デリー―(夜行列車)→
 2日目 →バラナシ(1泊)
 3日目 バラナシ→クシナガル(1泊)
 4日目 クシナガル→ゴラクプル―(夜行列車)→
 5日目 →デリー、市内観光
という日程になった。

さて、お値段は・・・
先程のベテラン職員が電卓をたたく。
「3万5000」
「え!? 3万5000ルピー?」
「違う違う。3万5千円」
何だ、日本円か。それにしても高いな・・・
どうやら、バラナシ→クシナガル→ゴラクプルの車代が高くつくらしい。

その後、車や列車をエアコン無しにしたり、5日目の市内観光を無しにしたりで「ラストプライス」2万円まで引き下がった。

どうしようか・・・

2万円でも、自力で行くことを想定して考えていた値段よりも高い。しかし、ここまで引き下げることができたのだし、やはりクシナガルには行きたい。列車の切符の取りにくさを考えると・・・

よし。
これで行こう!

帰国日こそ日曜が明けた翌日にならないと決まらないが、これで取りあえず今回の旅の最終段階の日程が固まった。

いざ ラダックへ

2011年9月11日

朝5時半前に自然と目が覚めたので、そのまま準備して空港へ向かうことにする。
空港へ向かう地下鉄の始発の時間が分からない。それに、まだ疲れが体に残っている。重いバックパックを背負って駅まで行って無駄足だったらまた疲れが増幅されそうに感じられたので、素直に宿の張り紙にあった空港タクシーを利用することにした。
ちなみにそのタクシー料金は、プリペイド(前払い)で250ルピー。昨夜空港で利用した350ルピーのプリペイドタクシーより100ルピーも安い。

――やはり、デリー空港のぼったくりスピリットは生きていた。

昨日のこともあってゆとりを持って出かけたところ、チェックインの時間開始の10分前に到着。ゆとりを持ってチェックインをし、ゆったりと食事をしてゆったりとパソコンを開いて――言うまでもないことだが、やはり時間に余裕があった方が心にも余裕ができる。

午前9時前、GoAir社のレー行きの便が離陸する。上昇していく機体の窓から下界を見ていると、タージ・マハルのようなモスク風の巨大な建造物が大きな川のほとりに見える――いやどう見てもタージなのだが、タージのあるアーグラーはデリーの南でレーはデリーの北である。まさかレー行きの便がアーグラーまで旋回したと言うのだろうか、それともタージとは別の何かだったのだろうか・・・

窓の下はすぐに緑深い山の景色へと変わっていった。と思うとやがて眼下には雪山が広がり、そして雪山の景色も間もなく終わり、眼下の山は土むき出しの褐色へと変わっていった。

間違いない――これが、ラダックの大地だ。

高ぶる気持ちが抑えきれなかった。

40分ほどの間でこうした目まぐるしい景色の変化が起きたかと思うと、9時30分すぎ、降下が始まった。機体が安定高度を保っていたのはコーヒー1杯を飲んでいる間だけだった(ちなみにこのGoAirの機内サービスで出たコーヒーはレギュラーコーヒーではなく、砂糖たっぷりのインスタントコーヒーだった。これが格安航空会社のサービスというものか)

降下は始まった。しかし、滑走路が全く見えてこない。実際のところは降下を始めた時には山陰の死角の先にあって見えなかったのだが、いくら旋廻をしても見えてこない。褐色の地面がどんどん近づいてくる。このまま褐色の地面に胴体着陸か?という冗談まで頭をよぎったが、着陸寸前になってようやくアスファルトで舗装された滑走路の端が窓の外に見え、そのまま無事着陸した。

タラップを降りてバスで到着口へ移動し、預けていたバックパックを受け取ってさあ、空港の外へ――とその前に、外国人はラダック入境手続きをしなければならない。とは言っても入境許可証を発行されるという訳ではなく、インドの入国審査で提出したような規定の用紙に必要事項とサインを記入して提出したらそれでOK、という簡単なものである。

これで空港から出ることができる訳だが、空港から街中へ向かうには迎えが来ているのでなければまたしてもプリペイドタクシーということになる。私は一人旅なので割高になってしまうが――そこは旅を繰り返して身に着いた図々しさを発揮する場面である。近くにいた外国人(オーストラリア人だった)2人組に「タクシーをシェアしませんか?」と申し出たところ、快く受け入れていただけた。街中まで1人だったら210ルピーかかったところを僅か70ルピーで行かせてもらった。

レーの中心街であるメイン・バザールに到着したところで私はタクシーを下りた。運転手に教えられた方向に歩くと、確かに目指すゲストハウスへの道標があった。現地の人にも尋ねながら、無事目指すゲストハウスに到着。一番安い250ルピーの部屋に案内してもらったが、同じ250ルピーでも、昨夜デリーで泊まった宿よりも広々としていて小ざっぱりとしている。それに、窓の外にレー王宮が見えるという景色のよさも私の心を惹き付けた。

決まりだ。

私のラダック巡りは、ここを拠点にいざ始まりだ。

インドへ――取りあえずはデリー着

2011年9月11日

想像以上に快適だったジェットエアウェイズインディア機のシートに身を委ねること5時間50分――のはずだったが、デリーには僅か5時間10分後の22時20分には到着した。結局、飛行機から降りるのに普通より時間がかかってしまったものの、予定より30分近く早くインドへの入国が完了した。少し心配していた荷物も無事、同じ便でデリーに到着してくれた。

ここで、私の計画に変化が発生した。

当初の予定では、そのままデリーの空港に居座って朝のラダック行きの便を待つ予定だった。しかし、日をまたぐ前に空港を出ることができたのなら、地下鉄で一旦街中に出てゆっくりとベッドの上で休むのも悪くないのでは――明日の便も8時50分の発なので、6時ぐらいに宿を出れば十分だ。
しかし、街中に出ることを考えるようになったのは、時間に余裕ができたということができたからということよりも、「ベッドでゆっくり休みたい」ということの方が大きかった。先ほどの香港出発でのドタバタで、心身共にかなり疲れていたのである。その証拠に、地下鉄が既に終了していて地下鉄で街中に出ることができないことが分かった次に考えたことは、プリペイドタクシーを使って街中に出ることだった。とにかく、ベッドで休みたかったのだ。
プリペイドタクシーとは文字通り、前もって窓口で料金を支払ってから乗るタクシーのことで、悪名高いデリー空港のぼったくりタクシーに比べれば遥かに安全だ(ところで、その悪名高いぼったくりタクシーの客引きだが、今回デリー空港を初めて利用して受けた印象では、全くと言っていいほど見当たらなかった)

プリペイドタクシーは、時には信号を無視し、時には逆走しつつ市内へ向けて突っ走る。
[そんなに急がなくていいから、安全運転で頼むよ・・・]
そんなことを思っているうちに、懐かしの安宿街メイン・バザールに到着した。
ぼったくられることも何も無く無事にタクシーを下りた私は、客引きたちと交渉しつつ、250ルピーの安宿を一夜のねぐらに決める(ホテル名失念)。オンボロで、ベッドの面積が部屋の8割を占める狭苦しい部屋だったが、今の私にとっては至福の空間である。大瓶ビールを1本飲み干した私は、目の前に近づいたラダック入りに少々興奮しつつも、それに備えてオンボロベッドの上でしばし休みをとった。
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