バス憧れの大地へ
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世界への旅(旅行記)

ラダック、北インド(2011年)

自然」の記事

【纏め記事】ラダックの自然

2011年11月23日

ラダックは大部分が岩砂漠だ。荒涼とした褐色の大地が広がっているが、そんな中を流れるインダス川が貴重な恵みの水だ。川岸には建築資材として欠かすことのできないポプラや柳の林が生い茂り、麦などの畑が広がり、そこに住む人々の命を潤している。
ラダックの大地
荒涼とした大地を流れるインダス川

ポプラ
ポプラ

ラダックの柳
ラダックの柳。日本のしだれ柳とはかなりイメージが違う。

ラダックの田園風景
田園風景

ラダックは平均標高3500mの高地である。それより高い場所が富士山頂ぐらいしかない日本では考えられないほど、空が青い。空気は薄く、慣れていないとすぐ高山病にかかってしまう。
また照りつける日差しは熱く、眩しく、紫外線も強い。私が訪れた9月は昼間は暑かったが、夜になると急激に冷え込む。「ラダックでは1日の間に夏と冬が来る」と言われるくらいだ。冬になると雪も降り、相当厳しい気候になるということだ。
そして、森林限界を超えているので、山は大地と同じ褐色のはげ山か、万年雪を頂いた白い雪山ばかりで、緑生い茂る山というものは見当たらない。
ザンスカールの山
ザンスカールの山

ドゥルン・ドゥン氷河
山あいを氷河が流れる

では、森林限界を超えているのに、なぜ平地にはポプラや柳が生い茂っているのか――実は、これらの木々は人々が人工的に植えたものが多いということだ。


以前にも書いたことだが、ラダックの風景は『風の谷のナウシカ』の風の谷そのものだった。一般的に風の谷のモデルとされる、ラダックよりもインダス川の下流にあるパキスタンのフンザでも、「ここはまさしく、風の谷だ」と思ったものだが、ラダックではそれ以上に『風の谷』である風景が私の目に焼きついた。
風の谷

ダラムサラ(7)~パグスの滝

2011年10月 9日

さて、目標のパグスの滝に近づき、遠目に滝も見えてきた。しかし、その手前のエリアが4年前に訪れた時と何か様子が違う。
恐ろしいほどに観光地化が進められていたのだ。以前には無かったホテル、レストラン、土産屋がずらりと軒を並べるようになっていた。
観光地化が進んだパグスの滝手前のエリア

滝の手前にあるヒンドゥー寺院が観光スポットになってダラムサラに来るインド人観光客が増えた、とは聞いていた。しかし、ここまで様子が一変していたとは・・・
そのヒンドゥー寺院の前にあるプールも、4年前に見た時には“沐浴場”のイメージが強かったのだが、今目の前にある同じ場所は、完全に“遊泳場”と化していた。
ヒンドゥー寺院前のプール

さて、パグスの滝がいよいよ近づいてきた。緑の森の下に、細いながらも谷が形成されていて、心地のよい自然の景観が目の前に広がる。
以前と比べて遊歩道もしっかりと整備されている。とはいえ、滝の手前ではほんの少しばかり岩をよじ登る必要があった。
パグスの滝
手前の方ではあれだけヒンドゥー色が強かったのに、滝の上にはしっかりとチベット仏教のタルチョ(五色の祈祷旗)が張られている。仏教とヒンドゥー教のちょっとした共存ということができるかもしれない。

水しぶきがかからない程度まで滝壺に近づいてみた。この日は陽射しが強いだけに、高い所から水が落ちてくる清涼感が心地よい。
しかし――その落ちてくる水に騒いだのは、自然を楽しむ心よりも写真マニア魂だった。シャッタースピードを思い切り速くして、次に思い切り遅くして撮り分けてみる。
パグスの滝
こんな感じで。
(左:シャッタースピード1/4000秒、右:同1/15秒)

ザンスカール―カルギル(2)

2011年9月30日

カルギルへの車は、7時すぎになってようやくパドゥムを出発した。

来た時と同じ道ではあるが、進行方向が逆だと見える景色も違う。また、何度見てもいい景色というものもある。特にドゥルン・ドゥン氷河では、私も田辺さんもテンションを上げて、埃っぽい荒野を走っているにもかかわらず車の窓を全開にして写真を撮り続けていた。

今回特に印象に残ったのは、道と川の方向が西向きから東向きへと変わった後のスル谷の景色だった。山と山との間に、スル川が切り開いた広大な谷が横たわっているのである。
『風の谷』

[これこそ、『風の谷』だ・・・]

私は名作アニメ『風の谷のナウシカ』の情景を思い浮かべていた。

4年前、私は『風の谷』のモデルではないかといわれる同じくカシミール地方の、現在はパキスタンの実効支配下にあるフンザを訪れて、その清らかで幻想的な谷の風景に、なるほどこれは『風の谷』のモデルかもしれないな、と感じたものだった。ただ一つ、あの名作の谷に比べて狭いかな、という違和感だけがぬぐえなかった。

今眼下に見える風景はどうだろう。山と山に挟まれた広大な谷の中に、川が流れ、小さな家屋が点在し、収穫後ではあるが田園風景が広がり、緑の木々が林を形成している。
『風の谷』のモデルは実は、フンザよりもむしろその上流にあるラダックではあるまいか――そんな気がしてならなかった。

さて車は、なぜか途中で発電用のタービンをピックアップしつつ、スル川に並行する道を下っていく。行きと同じ3箇所のチェックポイントでパスポートチェックを受ける毎に、ザンスカールから遠ざかっているのだな、ということを感じる。

スタートで出遅れたため明るいうちに到着できるがどうかやや不安だったが、車は出発から10時間強の午後5時半、カルギルのメイン・バススタンドに到着した。その10時間の間トラックの荷台に置かれていたバックパックは、荒野の風に吹きさらされて埃まみれになっていた。

到着して真っ先に行ったのが、メイン・バススタンドでレー行きのバスを探すことだった。これが見つからないと騒がしいだけで何の面白みも無いカルギルで余分な長居を強いられることになる。
ところが探し始めて1分とたたないうちに、至極きれいなレー行きのバスが見つかる。運賃は1人300ルピーと、思っていたよりも安い。私と田辺さんは即そのバスのチケットを購入し、出発時間である翌午前4時半まで近くのゲストハウスで一息ついた。

サニ・ゴンパ

2011年9月29日

何が何でも見ておきたい場所は、あと2箇所あった。その一つが、パドゥムから北西へ7kmの場所にあるサニ・ゴンパ(サニ・パレス)だった。幸いにも、乗り合いタクシーがすぐに見つかったので早速向かった。

サニ・ゴンパは珍しく平地に建てられたゴンパである。本堂が一つと、チョルテン(仏塔)が幾つかあるだけの小さなゴンパだが、その本堂の内部が素晴らしいらしい。
本堂の周りは工事中で、マニ車の列を設置するスペースはできているものの、肝心のマニ車がまだ設置されていない。しかし、本堂そのものはかなりきっちりとメンテナンスされているようで、真新しさすら感じさせられる。
サニ・ゴンパ
――にもかかわらず、塀を工事している俗人のインド人以外、全く人けが無い。本堂の扉も固く閉ざされている。境内の井戸へ水をくみに来た女性にも確かめてもらったが、やはり誰もいないようである。

仕方が無いので、先に境内の外にあるチャンパ石仏を見に行くことにした。実は本堂以上に見ることを楽しみにしていたのがこちらなのである。
こちらも入り口は閉ざされているが、外から覗くことはできた、チョルテンの前に、1000年以上前のものとは思えないほど保存状態のいい石仏が並んでいる。ここでお祈りをして、本堂の中を見ることができないイライラを少し和らげた。
チャンパ石仏

しかし、1時間以上待っても誰も来る気配が無い。この分では、幾ら待っても無駄となる可能性も十分にある。
残念ながらの連続だが、サニ・ゴンパ内部の参観も諦めざるを得なかった。しかし、立派な本堂の外観とチャンパ石仏を見ることができたので、まあよしとしよう。

サニにはこのほか、地元民に神聖視されている小さな湖もあり、仏教以外に自然も楽しむことができる。
サニの湖

竜巻

2011年9月28日

カルシャからの帰り道。パドゥムの街に着く直前のことだった。
行く先で、ものすごい勢いで砂埃が立っている。

[おい、冗談じゃないぞ。あんな埃に直撃されたら、今コンタクトレンズだし、鼻炎もぶり返すではないか]

しかし、よく見ると、天に向かって舞い上がる砂埃は少しずつ移動している。しかも、渦を巻いてはいないか?
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竜巻だ・・・

幸いにも、規模が小さく、家屋や家畜を吹き飛ばすような被害は無く、高い山にぶつかったところで竜巻は消えた。

それにしても、竜巻なんて、リアルで見るのはこれが初めてだった。

ザンスカールの朝

2011年9月28日

パドゥムは、ザンスカールの中心の街。
しかし、同じ中心の街とはいえ、レーとはかなり違う。
賑わいのある北のマーケットから一歩足を踏み出すと、そこはもう農村地帯。
雪山がすぐそこに見える田園地帯で、ゾ(ヤクと牛の交配種)、牛、馬、ロバ、ヤギ、羊たちが草をほおばっている。
家畜たち

勿論人間たちも、籠を背に拾い物をしたり、家畜を追ったり、ゾを使って畑を耕したりしている。
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そんな中を歩いていると、実に空気がすがすがしい。深呼吸をしながら「空気がおいしい」と心の底から思えたのなんて、どれだけぶりだろう。

さて、私が今回目指しているのは、パドゥムの北東6kmほどの場所にある(とガイド本にかかれている)ゴンパだ。片道6km程度なら、私の脚なら余裕で歩いて往復できる距離だ――ということで、歩いていくことにした。
上記の田園地帯を過ぎると、荒涼とした荒野となる。しかし、その荒野のすぐそばに、割と大きな川(スル川)が流れているから不思議なものだ。
スル川

その川のほとりに出ると、向こう岸に目標のゴンパはもう見えている――というのに、橋が遠い。一番近い場所ではなく、橋が一番短くて済む場所に造られているのである。おまけに、橋までの道も最短距離ではなくやや遠回りに造られている。ようやく辿り着いた橋の位置は、目標のゴンパを少しだけ過ぎていた。

橋からゴンパまでも結構離れている。おまけに道が曲がりくねっていて随分なロスになるように思われたので、私は道の無い最短距離を進むことにした。
傾斜はそれ程でもないのだが、石がゴロゴロしていて歩きにくい。おまけに、出掛けは寒かった天気がいい陽気になり、暑さと厚着で汗ばんでくる。

パドゥムを7時40分ごろに出発し、橋に到着したのが9時20分。ゴンパの下に到着したのは10時15分――写真を撮りながら歩いたり、坂道を上ったりしたとはいえ、6km程度の歩きにしては余りに時間がかかりすぎている。
私はようやく、ガイド本に書かれていた「6km」というのが直線距離であることに気がついた。

ザンスカールへ(3)

2011年9月27日

ペンジ・ラ峠を越えて10分ほど、白い雪を頂いた山の景色に見とれていると、雪山と雪山の間に白い帯が横たわっているのが見えた。
[もしかしたら・・・]
予感はしたが、その正体はすぐにはっきりと分かった。
ドゥルン・ドゥン氷河
氷河(ドゥルン・ドゥン氷河)だった。
先程から車の窓を開けて写真撮影をしていて、どうも冷え込んできたな、と思っていたら、ついに氷河がすぐそこに見える所まで来ていたのである。
ここは標高4000mの地である。雪山のすぐわきに川があるのだからその水源となる氷河があることは容易に予想できるが、これほど立派なものをみることができるとは――4年前、チベット・デチェン地区のカワ・カルポ峰(漢字名『梅里雪山』)に端を発するム・ロン(漢字名『明永』)氷河やパキスタン・フンザの氷河を訪れて以来の本格的な氷河を目の当たりにして、私のテンションのゲージは一気に上がった。

その他にも、ザンスカールは様々な自然の姿を見せつけてくる。

雪山をバックに、荒野の中を川と川が一つになる瞬間・・・
川と川が一つになる瞬間

川が大地を大きくえぐり、鋭い谷を形成している場面・・・
鋭い谷

ザンスカールは、高地における自然の姿の宝庫と言っていいだろう。

そして、カルギル以来希薄になっていたチベット色も再び濃厚になってきた。

チベット様式の家屋、タルチョ(五色の祈祷旗)、チョルテン(仏塔)・・・
チベット様式の家屋、タルチョ、チョルテン


チベット的な顔立ちとチベットの民族衣装・・・
ザンスカールの女

今回の旅で究極の目的だったザンスカールに、今私はいるのだ。その中心都市まで、もうあと少しである。

ジープは途中で大きな荷物を持った地元の人を乗せつつ走る。アブラン手前の最後のチェックポイントを過ぎる頃には、乗客は5人にもなり、後部トランクと屋根の上は荷物で一杯になっていた。

やがて悪路は終わり、ジープは舗装道路に入り、ラストスパートをかける。
そして、やはり出発から11時間以上となった午後6時前、ジープはついに、パドゥムに到着した。
パドゥム

ここまでの行程で既に自然の景色を存分に満喫したが、ザンスカール巡りはまだまだこれからである。

ザンスカールへ(2)

2011年9月27日

サンクからの道は確かに悪路が多く、厳しかった。とはいえ、先日トラックでアルチ~ラマユル間の悪路を越えてきた身には、ジープに襲ってくる振動ぐらい何ともなかった。むしろ、車窓から見えるスル谷と標高5000m超の雪山の景色を、シャッタースピードをかなり速くして撮影しつつ楽しむ余裕すらあった。
スル谷と雪山の景色
サンク―テシェル間にて

9時10分、テシェルに到着。ここで最初のパスポートチェックを受ける。何か、4年前に訪れた同じくカシミール地方のインダス川流域のパキスタン・フンザに行った時のことを思い出す。

その後、山道に差し掛かって川を遥か下に見下ろす位置にまで上がり、進路を南から東へと変える。するとその先は、舗装された箇所が全く無い悪路の連続となり、ジープの速度は自然と遅くなっていった。

上がったり下がったりを繰り返しながら、12時半、ランドゥムに到着。このあたりが大体中間点だ。ここで昼食をとり、2度目のパスポートチェックを受ける。
ここでようやく、ゴンパが見えてきた。ランドゥム・ゴンパである。
ランドゥム・ゴンパ
イスラムの街カルギルからここまで、仏教的な要素はチョルテン(仏塔)を一回見た以外全く見られなかったのだが、どうやらここから再び仏教圏に入るようである。

そして午後2時20分、標高4400mのペンジ・ラ峠を越える。
ペンジ・ラ峠
ここから先が、いよいよザンスカールだ。

パンゴン・ツォとの別れ~ヤクとの出会い

2011年9月22日

車は昨日来た湖畔の悪路を、今度は立ち止まることもせずにひたすら走り続ける。しかし、昨日は山々を映し出していた部分もあった湖が、今は一面のブルーになって私たちの右手に横たわっている。これを見てカメラの虫がうずくのを抑えられるほど、私は我慢強くはなかった。カメラのシャッター速度をかなり早めに設定すると、私は車の窓を開け、湖との名残りを惜しむかのように青い湖面を写真に収め続けていた。
パンゴン・ツォ

やがて湖を離れて峠道に入ると、それも叶わなくなった。車はパンゴン・ツォに別れを告げ、来た時と同じように峠道をひた走り、チャン・ラ峠を越えていく。

峠を越えて20分ほどした時のことだった。
草原の中に牛のような動物がいるのが見える。しかし、普通の牛ではない。長い毛をふさふさと伸ばしていて、角も牛より長い。
ヤク
――ヤクである。
今回の旅で、これまではヤクと牛の交配種であるゾばかり見てきたが、正真正銘のヤクにはなかなかお目にかかれずにいた。
実は、それが私にとっては大きな不満だった。

[どうして、チベット文化圏に来ながらこうもヤクに巡り合えないのだ?]

レーの土産屋には「Yak Yak Yak」とか「Hard Rock Yak」などと刺繍されているTシャツが売られているにもかかわらず、である。
ヤクのいないチベット文化圏なんて――と思い始めていた矢先の出会いに、私はようやく、チベット文化圏に来た感慨をほぼ完全に満たすことができた。後は、ヤク肉の料理さえ食べられたら・・・(おい)

(ちなみに、ヤクとゾの見分け方は、角が後ろに反っているのがヤク、反らずに上に伸びているのがゾであるとのこと)

パンゴン・ツォでホームステイ(2)

2011年9月22日

まだ夜も明けきらぬ薄暗い中、カメラを片手に外に出かける。パンゴン・ツォはまだ黒く染まったままだが、湖の西の向こうにそびえる山とそれにかかる雲は赤く染まり始めていた。
そして、6時半。湖の東の向こうの山の上に明るい光の塊が浮かび始めた。
日の出である。
日の出
折しも、この日は秋分の日の前日。あの太陽はほぼ真東に姿を見せているはずである。

それからは、朝の散歩がてら湖と農村の姿を写真に収めて歩く。
岸辺に近づいたところで、昨日から探してみてありそうでなかなか無かったタルチョ(五色の祈祷旗)をようやく廃屋(もしくは建設中の家屋)の屋根の上にようやく見つけた。やはりチベット文化圏の湖にはこれがなければ様にならない。
パンゴン・ツォとタルチョ
その他、賽の河原に積み上げられるような石の塔が幾つも湖の岸辺にあるのも印象的だった。
パンゴン・ツォと石の塔

午前8時。ホストファミリーの家に戻ってラダック風パンとバター・ジャムとミルクティーという朝食を頂く。簡素な食事だが、この簡素さが田舎でのホームステイらしくていい。

午前9時。車に乗り込んでレーへの帰途に就く。僅か一晩だったが、景色も空気も人も、全てがゆったりとしていて心地の良い一晩だった。ホストファミリーの皆さんには大変お世話になり、別れが名残惜しかった。
ホストファミリーの皆さん
ホストファミリーの皆さん、お世話になりました。

パンゴン・ツォでホームステイ(1)

2011年9月21日

この日はパンゴン・ツォのほとりで一夜を明かす。泊まるのはゲストハウスではなく、民家の一部屋を利用した雑魚寝部屋だ。このような宿泊形態を、ラダックでは「ホームステイ」と呼ぶ。

私たちが泊まったのは、スパンミクの山側の斜面を少し上がった所にある民家だ。若い夫婦と、老夫婦の4人で経営しているアットホームな所だ。皆穏やかないい人柄で、おじいさんは足が悪いものの気持ちはまだまだ元気である。
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日が暮れるまで辺りの写真を撮り歩く。高台から望むパンゴン・ツォとその向こう側に見える山々の景色は雄大であり、その手前に見える農村風景は牧歌的で、自然とスローライフという2つのテーマが実によくマッチしている。
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日が暮れて、食事時となった。台所と居間が一体になった部屋に通され、今回の旅で初めてとなるテレビを見つつ、奥さんが作ってくれた、豆や野菜を炒めたベジ料理をご飯にぶっかけた素朴な料理を頂く。
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民家の台所で料理を準備する奥さん

「おかわりはいかが? どんどん食べてください♪」
こういう温かさもホームステイらしくていい。

食事が終わり、外に出てみると、レーやストクで見る以上に見事な星が空を彩っていた。天の川まではっきりと見ることができる。(写真撮影は失敗)

気がかりだったのは夜寝る時の寒さだった。今回初めての寝袋の出番か?とも思ったが、外の寒さと比べ、室内は暖房も入っていないのに十分に暖かい。服装をしっかり重装備にすれば、備え付けの綿の掛け布団1枚で十分に快眠できた。

パンゴン・ツォ

2011年9月21日

車が進むにつれ、パンゴン・ツォは次第にその姿を露わにしてきた。一段高い所に敷かれた道路の下に、真っ青な湖面を横たえている。
真っ青な湖と言えば、私はこれまでにも、チベットのココ・ノール(チベット名:ツォ・ゴンポ、漢字名:青海湖)、ナムツォ、ヤムドク湖やペルー~ボリビアのティティカカ湖などを見たことがあるが、それらに比べると青さがやや淡い気がする。しかし、それはまだこの地点が湖の端っこで深さが足りないせいもあるかもしれない。
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クリックでパノラマ写真表示

最初のドライブインで暫く湖を散策。さすがにチベット文化圏の湖だけあってタルチョも飾られている――のだが、チベット本土のナムツォに比べるとその数が圧倒的に少ない。更に、その後南岸を南東へと進むことになるが、それ以降タルチョは殆ど見られなくなってしまった。

ここから先の湖岸の道は悪路が続いた。四駆の車でなければ進むことはまず不可能だろう。

少しばかり東へ進んだところで、運転手が「ここもビュースポットですよ」と車を停めた。どうやら、パンゴン・ツォを一躍有名にしたインド映画『Three Iriots』の撮影現場がここだったらしい。
ここでは、残念ながら湖の青さは影を潜めていた。その代わり、逆さ富士のように周囲の山々が湖面に移るという別な形での美しさを見せてくれた。
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ここで、湖の水をちょっと口に含んでみる――少ししょっぱい。塩湖だった。

更に悪路を南東へと進み、この日の宿泊場所となるスパンミクを一度通り過ぎてマラクへと向かう。
実は、マラクは現在のところパンゴン・ツォ湖畔で外国人が行くことができる限界地点であり、しかもほんの昨年まではスパンミクまでが限界地点だったのだ。

なぜ、外国人の行ける場所が制限されているのか――その答えは即ち、この湖に行くためになぜパーミットやパスポートチェックが必要なのかの答えでもある。

実は、パンゴン・ツォはインドと中国チベット本土の国境を跨いで大地に横たわっている(インド・ラダック側は湖全体の4分の1にすぎない)のである。そしてこのエリアは、インドと、チベットを占拠している中国との国境紛争(1962年)の舞台となったのだ。そういう敏感な場所であるが故に、外国人の入域が厳しく制限されているのである。
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湖の東側(右)と山の向こうは中国チベット本土だ

ラダックを訪れる旅行客に人気の湖にはパンゴン・ツォのほかにツォ・モリリという所もある。人によってはツォ・モリリの方が神秘的でいい、と勧めることもある。しかし、私が敢えてパンゴン・ツォを選んだ理由にはこれがあったのだ。

[この湖は、チベット本土と繋がっているのだ・・・]

湖の青さを見るまでもなく、その事実があるだけで、パンゴン・ツォを目の前に私のテンションはピークに達した。
そして、東の方に向かって私はひっそりと叫ばずにはいられなかった。

Free Tibet!!

パンゴン・ツォへの道

2011年9月21日

次の目的地は、パンゴン・ツォである。「ツォ」とはチベット語で「湖」という意味であり、パンゴン・ツォは東ラダックにある東西113kmの巨大な湖である。しかし、今回行けるのはその西の端の方にすぎない(その理由についてはまた別途記述する)。

ティクセから暫く南東に進み、カルという街で進路を北東へと変更する。ここで、1回目のチェックポイント。パスポートとILPと呼ばれるパーミットのコピーを提出する(察しのいい方ならこれだけで目的地がどういう場所だか、お分かりになることだろう)。

チェムレ・ゴンパを横目に通り過ぎ、8時45分ごろ、車は峠道に入る。つづら折の道をずんずん登っていくうちにこれまでは遠目に見上げていた雪山がどんどん間近に迫ってくる。しまいには道の脇に雪が積もるようになってきた。
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9時30分。峠道のピークであるチャン・ラ峠に到着。海抜5360mというとてつもない高さの峠だが、こんな高い所でもバスが通っているという。
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ここで無料の紅茶を頂いて体を温める。更に、峠に建てられた寺院にもお参りを――しようとしたのだが、参堂がタルチョで飾られていた割には祀られていたのはヒンドゥー教の神々だったので、お参りはやめて見るだけにとどめた。

峠を越えれば後は下るばかりだ。やがて峠道は終わり、その後はひたすら谷あいの道を進む。
暫くして、2回目のチェックポイント。ここではILPの提出のほか、台帳に氏名・国籍・パスポート番号・サインを記入させられる。こういうこと、以前にこの近辺のどこかでやった覚えがある・・・
更に、チェックポイントとは関係ない全く別の場所で通行料10ルピーを支払う。

そして、正午少し前、灰色の砂が川のように横たわる谷の向こうに、真っ青な湖が顔を見せた。
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パンゴン・ツォ到着まであと少しである。

停電&レーの星空

2011年9月17日

レーのOld Ladakh Guest Houseに戻り、午後8時すぎ、突然の停電
レーでは常時電気が通っている訳ではないのはとっくに分かっていたが、通常夜に電気が停まるのは23時で、この時間に停まるというのは余りに早すぎる。
屋上に上って周りの様子を見ると、どうやらこのゲストハウス一帯だけが停電になっているようだった。停電となると、ホットシャワーも使えないし、トイレも懐中電灯持参で行かなければならないし、パソコンやカメラの充電もできないしでかなり辛い。

しかし、屋上に出た時だった。

「うわ、星がきれい・・・」

ほんの局地的な停電でいきなり星がきれいに見えるはずもないが、この時はこれまでよりも空の星が多く見えるように思われた。
停電のことも忘れて、早速屋上に一眼レフと三脚を持って上がって撮影開始。
レーの星空
王宮を入れて撮影。69秒開放、絞り3.5、ISO640

で、停電は結局翌日午後まで続いた。そして、翌日も似たようなことに・・・

ストクの朝

2011年9月17日

夕べから雨が気になっていたが、朝起きてみると頭の上は見事な青空。山には雲がかかっていたが、逆にその景色が美しかったりもした。

7時ごろからワンボに連れられて朝の散歩。まずは山の中腹にある集会所を開けてもらい、中の仏像などを見せていただく。
それから、山の更に上の、旗のある場所までプチ登山。まだまだ上り坂は息が切れるが、そこから見渡す四方の風景は、雪山あり、川あり、街あり、砂漠ありと、目をやる方向を変える度に姿を変えていく。
ストクの山の上から見えた風景

朝食におじやを頂いたところで、ストクの農村体験ツアーは終了。「にゃむしゃんの館」を後にする。
実にいい体験をさせていただいた1泊2日だった。また機会があれば・・・。

ストクには、ゴンパや宮殿もあり、2010年まではそちらにまでバスが通っていたのだが、現在ではレー ― ストクのバスの終着点であるトレッキングのチェックポイントから、ゴンパまで20分ほど、王宮までは更に20分ほど歩かなければならない。ワンボさんにチェックポイントまで送ってもらった後、私は突き当たりの道を右に曲がってまずはゴンパへと足を運んだ。

ストク・ゴンパは道から少し外れた所にある。かなり古ぼけているが、不自然に修復するよりはこの方が風情がある。
ストク・ゴンパ
本堂の扉には鍵がかかっていたが、2、3度と訪れているうちにお坊さんが現れたので扉を開けてもらった。一番奥には、ゲルク派の創始者であるツォンカパの像が ―― 何かあるような気がして粘ったのだが、予感は当たっていた。これが祀られていたのだ。

元の道に戻ってストク・カル(王宮)へ。まずまず立派な建物なのだが、近くに鉄塔が建ってしまい、それが入らないように写真を撮るのに一苦労した。
ストク・カル
ここは元はラダック王家の別荘だったが、1842年に王家が廃位となりレー王宮を出た後は王家の居城となる。しかし現在では博物館として公開され、王家の人々がここにいる様子は無く、年老いた高僧のほか数人の職員がいるばかりだ。

ここからレー方向に進んで最初にある街が、インダス川の東にあるチョグラムサルだが、先述したとおりバスは走らなくなってしまったのでそれ以外の手段で移動しなければならない。ヒッチ等も可能だったが、まだ十分時間はあるし、私は歩くことに抵抗が無い、と言うよりは、大好きである。私は歩いて向かうことにした。
しかし、目の前に見えているインダス川がなかなか近づいてくれない。時には道を外れて荒野の中をショートカットするなどして歩くこと1時間20分。ようやくインダス川に行き着いた。
インダス川
この川を渡れば、そこはもうチョグラムサルである。

ティクセ

2011年9月15日

今回最初に目指したティクセはレーから南東へ約20kmの場所にある。バスは途中で客を乗降させながらも1時間足らずで到着した。

ティクセでの目当ては、隣町を出てすぐに目に入ってくるランドマークであるティクセ・ゴンパだ。
正面からその姿を見た瞬間 ―― 一目惚れをしてしまった。チベット本土のポタラ宮と瓜二つなのだ。レー王宮も形はポタラ宮と似ているが、色がほぼ褐色のみである。それに対し、ティクセ・ゴンパは赤・白・黄色とポタラ宮とほぼ同じ配色で、ポタラ宮よりもむしろ色鮮やかなくらいだ。
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近くで朝食をとった後、早速上ってみる。
その途中、何か部屋のようなものがあったので入ってみると、教室が幾つか並んでいて、中には小僧さんたちがいる。学校だった。
「ここは入っちゃダメだよ!」
小僧さんに言われて入り口の貼り紙を見ると、確かに「ここは学校です。参観者の入場はご遠慮ください」と英語で書かれている。
おっと、これは失礼しました――と外に出たところ、小僧さんの1人が着いてきて「Photo!」と写真をねだってくる。聖職者の卵とはいえ、まだまだ子どもなんだな、とほほえましく思いながら写真を撮ってあげると、今度は「カメラを貸して」と言ってくる。貸してあげると、私の写真や周りの写真を撮り始める。
と、更に2人の小僧さんが出てきて、カメラの奪い合って互いの写真を撮り始めた。しかもバシャバシャと遠慮なく連写する始末である(デジタル一眼だったからよかったが、フィルムカメラだったらたまったものではなかった)。おまけに持ち方が危なっかしく、いつ落としてもおかしくなかったので私は下から必死でカメラを支えなければならなかった。

まさしく好奇心の塊だが、かのダライ・ラマ14世も幼少の頃には好奇心の塊で時計を分解したりなさっていたという。もしかしたらこういう好奇心が、偉大な高僧を産み出す要因となるのかもしれない。

満足した小僧さんたちからカメラを奪い返し、いよいよゴンパ内部へと入る。入場料30ルピー也。
本家ポタラ宮と比べれば部屋数こそ少ないものの、まずまず多くの部屋があり、それぞれに仏像やダライ・ラマ14世をはじめとした高僧の写真が安置されていた。
「ジュレー ※1
「ジュレー」
私は一つの部屋の前にいた僧侶に声をかけた。
「きれいなゴンパですね。ポタラ宮そっくりです」
「そうですね」
そんな話をしている間に、話題はそこに描かれていた壁画へと移った。
「この壁画は“The Cycle of Life”を表しています」
「“The Cycle of Life”――日本語では『輪廻』といいます」
「『リンネ』?」
「はい!」
今後、このお坊さんが日本人を相手にした時、「この壁画は『リンネ』を表しています」とか説明するかもしれない。
更に話題は、ゴンパから見下ろす景色へと移った。
「あそこに川が流れているでしょう? あれはチベットから流れ出ているインダス川です」
「そうですか――それにしても、川の近くと遠くとで色が全然違いますね」
そう。インダス川のほとりは緑が生い茂っているのだが、ある一線を境にして突然、ラダックの大地は荒涼とした褐色の砂漠へと姿を変えているのだ。
201109150203.jpg
その水と緑の風景は、さながらオアシスである――否、“さながら”ではない。
インダスの川の流れはまさしく、乾燥したラダックにとって「オアシス」そのものなのだ。

ゴンパの中を右回りに「コルラ」する形で、仏様に祈りを捧げつつ部屋という部屋を回り、いよいよ最後の大部屋を残すのみとなった。
「うわ…」
中を覗いた瞬間、嘆声が口をついて出た。
そこには、下の階から床を突き出て肩から上を見せている金色の大仏(チャンパ大仏、弥勒大仏)の姿があったのだ。
高さは実に15m。このゴンパで見てきた全ての仏像の印象をかき消してしまうかの存在感だった。もはや、それらの仏像に対してやってきたのと同じ祈り方では全く足りなかった。私は、チベット仏教に関心がありながら普段は殆どやらない五体投地 ※2 を、その大仏の前で2度、3度と繰り返していた。
201109150204.jpg

兎にも角にも、素晴らしいゴンパだった。これまでのところ、ラダックで訪れたゴンパの中では最高のインパクトを受けたが、チベット本土で訪れたゴンパを含めても5本の指に入るのではないだろうか。
今後、ラダックで幾つものゴンパを見ることになろうが、ティクセ・ゴンパと比べてもの足りなさばかり感じてしまわないか、少々心配だ。


※1 ジュレー…ラダックの言葉で「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」等、いろいろな意味で使われるあいさつの言葉。
※2 五体投地…合掌した手を頭上から3段階で下ろした後、地面に体をひれ伏す方式の祈り。

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