山形・新潟100名城(1)―米沢城、山形城
2025年8月8日
青春18きっぷの夏。今年の夏もJRの鈍行列車を利用して城巡りの旅に出ることにした。
――のだが、青春18きっぷは2024年冬、購入時に指定した日付から5日連続でしか使えなくなる等の改定(改悪)が行われ、使いづらくなってしまった。学生の頃から幾度もお世話になり、城巡りの旅を始めた最近も、JRが便利なスケジュールではよく利用してきていた。しかし今回でJRの鈍行列車を多用するのも最後となりそうなので、青春18きっぷの旅自体、これで最後となりそうだ。
今回目指すのは、山形と新潟の名城。このエリアは「越後の虎」と呼ばれた戦国大名・上杉謙信、その跡を継いだ上杉景勝をはじめとする上杉氏ゆかりの地であり、今回の旅で訪れた城の多くは「上杉」の名が着いてくるものになった。
自宅最寄の神奈川県・川崎駅を早朝6時47分、出発。東海道線・宇都宮線、東北本線、奥羽本線を乗り継ぎ、東京、埼玉、栃木、福島の4都県を跨いで山形県入り。7時間近くかけて13時47分、米沢駅でようやく改札口の外に出る。
この街にある名城は、米沢城(続日本100名城 No.109)。2018年ゴールデンウィークの東北旅で一度訪れたことがあったが、100名城のスタンプを集め始める1年前のことだったので再訪した。駅からちょうどいい公共交通機関が無かったので、最上川を渡って2㎞強歩いて訪れる。
米沢城は、鎌倉時代に長井氏が築城し、戦国時代には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。江戸時代には上杉景勝をはじめとする米沢藩主上杉氏の居城となった。
景勝は豊臣秀吉の時代に越後(新潟)から会津(福島)に移り120万石の大大名になったが、徳川家康と対立して家康の「会津征討」を引き起こす。これが関ヶ原の戦いの発端となり、家康中心の東軍が勝利したことで景勝は敗軍の将となって領地召し上げとなり、米沢30万石に減封されてこの地に行き着いたのだった。その後徳川幕府に従うという経緯も考えると、さぞかし無念だったことだろう。
米沢城上杉氏は最後まで米沢藩の藩主であり続けたが、米沢城は明治に入り、建物が全て破却され、現在では土塁、堀、石垣が残るのみとなっている。
堀の内側の本丸跡に入って観光案内所を訪れ、7年越しで続100名城スタンプを頂く。
観光案内所のすぐ傍には謙信の銅像が鎮座し、少し離れた場所には景勝と重臣・直江兼続の像が立ち、今でも城跡を見守っている。
米沢城の上杉謙信像
米沢城の上杉景勝、直江兼続像予定よりも時間が余ったので、それならば米沢に来たからにはもう一度行きたいと思っていた場所へ足を延ばすことにした。
上杉氏代々の墓が設けられている、上杉家廟所。景勝以降の上杉米沢藩主のみならず、謙信の遺体も越後で没した後に会津、次いで米沢に甕棺ごと移されていて、ここに祭られているのだ。
上杉家廟所上杉の歴代藩主を拝んで米沢駅へと引き返し、再び奥羽本線で更に北上。この日の目的地である山形市に到着。山形駅西の、次に目指す城とも目と鼻の先のホテルがこの日の宿だ。
この街にある名城は山形城(日本100名城 No.10)。最上義光などに代表される戦国大名・最上氏の本拠となった城だ。ここも米沢城と同様、2018年の東北旅で一度訪れている。
夕刻の山形城本丸
夕刻の山形城二ノ丸東大手門まだほんのりと明るかったが、既に17時を過ぎていて100名城スタンプを頂くことはできない。本格的な登城は翌日に持ち越しだが、それでもこの日も、ジョギングがてら夕刻の城跡を楽しんできた。
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