バス憧れの大地へ

世界への旅(旅行記)

アジア周遊エピローグ~帰国

2007年アジア周遊 旅の総括

旅行期間の記録 大幅に更新

2007年5月6日に日本を出発し、同12月23日に自宅へと戻ったアジア周遊旅行。231日という長さはそれまでの記録32日(2001年のチベット、中国周遊)の7倍以上になる。32日の時ですら途中で音を上げるようになったこともあり、どこまで続けることができるか不安を抱えながら出発したが、32日を無事超えた後は極めてスムーズに進み、当初は「3か月ぐらい行ってくる」と言っていたのが結局、その2倍以上もかけてしまった。

かかった費用 総額100万円

移動費(4度の飛行機含む)、食費、宿泊費、入場料、現地ツアー料金(特にチベットで高くついた)、日用雑貨費、予防接種(ネパール、インドにて)、保険、カメラの買い替え(3度…)全て合わせて今回の旅行に費やした金額は…

ほぼ100万円

そこから航空券、上海-大阪のフェリー、チベットツアー、カメラ(笑)、予防接種、保険などの大口出費を除いた額は…

ほぼ64万円

1日あたり大体2770円か…
陸路の移動費とかも含まれてしまっているので、実質的には2500円ぐらいだろうか。
必ずしもバックパッカー=貧乏旅行者ではない、と思っている私だが、もう少し節約できたかもしれない。

271ページ、写真941枚の大作旅行記

当サイトでの旅行記も大作となり、

ページ数:271(各章インデックスページ除く)
写真点数:945

と膨大な数字となった。
旅行当時に書いていた下書き(『現在進行中!旅日記ブログ』)を基に文章の肉付け、写真の追加をする作業もかなりのボリュームとなり、旅行記の整理・更新にかけた実作業期間は17か月にも及んだ。

自分に起きた変化

さて、長期間海外を巡り歩いて、自分の中に変化が起きないはずはない。
以下にその「変化」について振り返ることにする。

1. 中国との決別

私は子どもの頃から、歴史・文化などの面で中国に関心を抱いており、初の海外旅行も中国だった。そして、隣国であり日本文化のルーツでもある中国をもっとよく知りたいとの思いから、中国・大連で留学、現地就職し、頻繁に中国国内旅行に出かけつつ、約6年間を過ごした。
しかし、どうも中国人の気質が自分とかみ合わない。「日本ではないのだから、現地の人たちが日本人と違うのは当然」と、必死で中国社会にとけ込もうとしたが、最後までそれはかなわなかった。

そして、中国で暮らす私が抱えていた大きな矛盾が、中国政府=中国共産党への不信感だった。
元より1989年の天安門事件以来、中国共産党には不信感を抱いていた。しかし中国の歴史・文化への憧憬がそれに勝って現地生活に踏み切った訳なのだが(その伝統文化が文革や『簡体字』の創設などで既に中国共産党によって壊されていたということに当時はまだ気づいていなかった)、夕方の中央テレビ(CCTV)が始まると、まずは「今日の江沢民」「今日の朱鎔基」「今日の李鵬」、そして当時盛んに言われていた「三つの代表」のスローガンの連呼など、プロパガンダのオンパレードにほとほと嫌気がさしていた。

結局、中国生活に限界を感じ、2007年4月、中国生活を終わらせるが、その後すぐ、再びアジア周遊の旅のスタート地点として中国に入る。
そして旅の中で、とんでもない出来事があった。

6月。雲南省徳欽(当時はそのようにしか思っていなかったが、『チベット・カム地方のジョル』が正しい)で、梅里雪山登山の際に遭難死した日中合同登山隊の慰霊碑に相対した時、そこに刻まれていた日本人の名前が意図的に傷つけられていたのを見てしまったのである(詳細-チベット東南部、中国西南部>ジョル・2)。
明らかに反日思想を持つ中国人の仕業だ。

[こんな死者への冒涜を平気でする人民を育ててしまった中国共産党の罪は大きいぞ…]

怒りの矛先は中国共産党に向かった。私の心が中華人民共和国から大きく離れていった一瞬だった。

その後、チベットを訪れたことも私の中国離れを加速させたが、それについては別途記述する。

そして11月、私は東南アジアをノービザで効率よく回るため、ラオス→中国雲南→ベトナムというコースをとり、(よせばいいのに)またも中国に入るが、昆明にて言い知れない不快感に襲われた。今回の旅で様々な国の様々な国民と接してきたが、それらのどの国民よりも中華人民共和国人民との間に溝が感じられたのだ(詳細-雲南南部>昆明)。

[自分が結局中国に馴染めなかったのは、そこが『日本ではないから』ではなく『中華人民共和国だったから』ではないのか?]

もはや、中国との決別は避けられなくなっていた。

そして、12月…
敢えて旅の締めくくりに上海を選び、上海発の船の上から

二度と来ないぞ~~~!!

と一喝。これが中国との"縁切りの儀式"となった(詳細-エピローグ~帰国>蘇州号)。

「可愛さあまって憎さ百倍」とはよく言ったものだ。

ただ、これだけは言っておきたいのだが、私にとって敵は飽くまで中華人民共和国=中国共産党であり、中国人民ではない。彼らもまた世界最低の政府に振り回され続けている被害者だと私は考えている。また、中国文化に対する憧憬も無くなってしまった訳では決してない。

2. チベットそして仏教との邂逅

これが一番大きな出来事だっただろう。

チベットには2001年にも行ったことがあるが、当時は中国によるチベット支配に対する憤りを既に持ってはいたもののまだ決定的なものではなく、「留学中の夏休みは長いからチベットまで行くこともできるな」感覚で出かけた完全な観光気分。しかも訪問都市はルシャルゴルムドラサあわせて10日程度だけで、「青海省」に属するルシャルとゴルムドに至っては当時チベットの一部という認識すら無かった。また、ラサを離れた数日後に四川省の九寨溝と黄龍も訪れたのだが、それらが元々チベットのアムド地方に属していたということは青海省が元々チベットであることを知った更に後になってようやく知ることになる。

2007年は2度目の訪問となるが、いろいろなきっかけがあって中国によるチベット支配に対する憤りの気持ちが強くなっていく。

実はチベット入りする前から既に、「チベットで漢語を使うのはチベットに対する冒涜」と、チベットでは基本的に中国語を封印する決意をしていた。そんな私が現地入りして「Free Tibet」の思いを強めたのもごく自然なことと言えるだろう。

本土以外でも、チベットに接する機会があった。
亡命政府がある、インドのダラムサラである。
そこで暮らす亡命チベット人の姿を見ていると、「なぜ彼らは自分たちの故郷で暮らせないのだ?」「誰のせいだ?」という憤りを禁じ得なかった。
ダラムサラでは、ダライ・ラマ法王のティーチングを拝聴する機会にも恵まれた。力強さの中にもユーモアのある言葉とにこやかな笑顔に、一発でとりことなり、「猊下を支持していこう」という気持ちにさせられた。

こうして、私にとってチベットは世界中のどのくによりもかけがえのない国となっていった。
旅が終わって帰国した後の2008年3月、チベットで騒乱が発生し、多くのチベット人が犠牲になると、私は何のためらいもなくこれまで一度も参加したことの無かったデモというものに参加し、何のためらいも無く、
「チベットに自由を!」
「中国はチベットから出て行け!」
と叫んでいた。これが決定打となり、私は以降、チベット・サポーターとしての道を歩むことになる。また同時に、これが「中国との決別」の最終ステージともなった。

また、仏教への関心を強めるに至ったのも、チベットを訪れることで私に起きた大きな変化だった。
それ以前の私は、別に無神論ということでは決してなかったのだが、どの宗教、どの宗派にもシンパシーを感じられず、また神頼みを必要と感じたことが人生で一度も無かったこともあって、宗教に対する信心をもてないまま過ごしてきた。チベット仏教も、宗教としてよりも"異文化"として惹きつけられたというのが実情だった。
それが、数年来ずっと訪れたいと思っていたシガツェのタシルンポ寺で、まさに"神がかり的"なタイミングで曇り空が晴れてくれたことで、「神仏は本当に存在するんだ…」とにわかに感じ、生まれて初めて神仏に心からお礼をしたいという気持ちがわき起こった。
今のところ、本物の信者になったというほどのものではなく、「以前よりはるかに仏教への関心が高まった」レベルなのだが、全くの不信心者だった以前のことを考えれば大きな進歩と言っていいだろう。

3. 人の生き死にについて考える

仏教に強く惹きつけられるようになったことが影響しているのかもしれないが、人の生き死にについても以前より深く考えるようになった。

最初のきっかけは、ネパールの首都カトマンズのパシュパティナートで、遺体を洗っているところと火葬の現場を見たことだろうか。
そして、インドのバラナシ。ガンガー(ガンジス川)のほとりでやはり火葬の現場を見た時に「ここで荼毘に付された遺体の魂は、果たして天へと返るのだろうか。それとも、彼らの魂の行き先は、やはり聖なるガンガーなのだろうか」と考えたりもした。

特に、インドではそのことで考えさせられることが多かった。以下に「インド巡り総括」で書いた内容を転載する。

「インドに来ると人生観が変わる」とよく言われる。

私の場合、今回の旅の中で仏教の影響を強く受け始め、人生について  ――  いかによりよく生きるか、ということを考え始めるようになった。仏教の影響を受けるようになる直接の契機はチベットでだったが、インドでもダラムサラでダライ・ラマ14世のティーチングを拝聴したことが大きかった。

しかし、一番大きく影響を受けたのは、自分自身の人生をどう生きていくか、ということよりも、「人が生きる」ことそのものに対する考え方だ。

インドには貧しい人々が大勢居る。
彼らを見ていて思ったことは、彼らは私たちよりもはるかに"生きることに必死"であるということだった。
 生きるために物乞いをする人…
 生きるために人を騙したり、ぼったくりを働いたりする人…
多かったのは、そうした人々だった。

必死になって生きている人には、エールを送りたくなるものである。
しかしインドには、素直にエールを送ることができない人々が余りに多い。

ダラムサラでのダライ・ラマ14世の法話の中で、仏教の"五戒"に関する話があった。
"五戒"というのは、
 (1)殺生をしない(2)邪淫をしない(3)盗みをしない(4)嘘をつかない(5)アルコールを飲まない
というものである。
(5)の「アルコールを飲まない」はともかくとして(私には守れそうにない)、他の4つに関しては、仏教に限らず、全ての人々が守るべき戒めであろう。
しかし現実には、強盗殺人、売春、泥棒、詐欺  ――  生きるためにこれらのことすらする者もいる。

インドには、詐欺或いは詐欺まがいの者が特に多かった。
その他、他人の迷惑を省みずにしつこく勧誘してくる者もいた。一番許せないのは、違法ドラッグや麻薬を外国人に売りつけて一儲けしようとする輩である(買う馬鹿がいるから売る馬鹿がいる、という見方もできるが…)。

生きるために必死になることは、人として当然の権利である。
しかし、そのために道を誤ったり、"良く生きること"を放棄したりした人生に、どれだけの価値があるというのだろう。

―― “人生”とは、ただ単に“人が生きる”ということではない。
―― “人として”或いは“人らしく”生きるということではないのか。

それから、バラナシで火葬の様子を見たこと、コルカタのマザー・ハウスでの奉仕活動で死と隣り合わせで生きている人々の姿を見たことで、人の"生"と"死"についても考えさせられた。
自らの死をリアルに感じるようになった人が、自分が"良く生きること"ができたか否かを走馬灯の如く考えた時、"良く生きること"を放棄した人はそこで大いに苦しむことになるだろう。いやあるいは、そんなことすら考えるに至らないほど倫理観が失われてしまっているかもしれない。その場合には、(天国と地獄というものがあるとして)気づいたら地獄行き、ということになるだろう。

今回のインドの旅で、私はある意味確かに、"人生"というものを今まで以上に真剣に考えるようになった。

インドの後も、例えばカンボジアの地雷博物館やキリング・フィールドトゥール・スレン博物館で、ベトナムのベトナム戦争証跡記念館で、人の命の尊さを感じると同時に、以前より持ち合わせていた平和主義の信念、人権への意識を再確認させられた。

4. 異文化への憧れ増大

これは以前からあったのだが、中国ばかり回っていた私にとって、南アジアや東南アジアなど、まだ見ぬ文化に触れることができたのは新鮮な思いだった。
世界にはまだまだ、まだ見ぬ文化が山ほどある。それら異文化への憧れの気持ちが、今回の旅で受けた新鮮なカルチャーショックで増大してしまった。
南米、トルコ、ギリシャ、アフリカ  ――  考えれば考えるほど、行きたい所は増えてくる。
旅の無限ループに陥ってしまったかもしれない。

旅は終わったのか?

最終ページに書いたように、日本に帰国した後も「旅が終わった」という実感が乏しい。

旅は本当に終わったのか?
単に旅の途中で日本という国、東京という街に立ち寄り、そこでの滞在期間が何年、何か月になるか分からない、というだけなのではないか?

そんな気持ちが、今でも続いている。

そんな折、ラオスや雲南南部で一緒だったタツヤと東京で会う機会があり、その時に自分のもやもや感をぶつけてみた。
(以下、当時の会話とその時感じたことを『雑記ブログ』より引用)

私は昨年のアジア周遊の旅を終えて帰国した時に感じた違和感を、同じく長期旅行をしていた彼に質問という形でぶつけてみた。

「日本に戻った時『旅が終わった』って実感あった?」

私は昨年12月、「年内には帰国」という予定通り、7か月半に及ぶ旅を終わらせ中国・上海―大阪の船で日本に戻った。しかし、大阪で日本の地を踏みしめながらも違和感を感じていた

――旅は本当に終わったのか?

その問いに対する彼の答えはこうだった。

「僕は、(ウイグルで)皆既日食を見た時に『これで旅は終わりだ』と思いましたね」

違いは明らかだった。

旅の中で区切りを見つけた彼。

出発前から旅のリミットを決めていた私。

つまりは、私は「これで旅を終わらせてもいい」と思わせる強い契機に出合う前に、出発前に設定した「年内には帰国」という実に下らない理由に拘泥されて帰国してしまい、満足しきれないまま旅を終わらせてしまった、ということだったのだ。

今にして考えれば、私は帰国に際して、旅疲れの気分は全く無く、まだまだ余力はあったのである。

私の愛読書である、沢木耕太郎「深夜特急」。

沢木氏はインド・デリーからイギリス・ロンドンまでバスを乗り継いでいくという目標を、時間的には当初の目的よりオーバーしたものの、見事達成させた。そして、出発前に友人に約束した通り、ロンドン中央郵便局から「ワレ到着セリ」という電報を打とうとした。

しかし、同書の締めくくりはこうだった。

==========
これからまだ旅を続けたって構わないのだ。私が旅を終えようと思ったところ、それが私の中央郵便局なのだ。
(中略)
私はそこ(注:旅行代理店。ここで沢木氏はアイスランドへのチケットを予約する)を出ると、近くの公衆電話のボックスに入った。そして、受話器を取り上げると、コインも入れずに、ダイヤルを廻した。
(中略)
《ワレ到着セズ》
と。
==========

長期旅行者にとって、旅の終わりは、達成感によって決まるのではない。
満足感によって決まるのではないだろうか。

やはり、私の心の中で、旅はまだ中途半端のまま終わっていないようである。

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