バス憧れの大地へ

雑記ブログ

2016年GW 平泉

新花巻から移動して訪れた場所は、平泉。奥州藤原氏と源義経ゆかりの街である。20年ほど前に一度訪れたことがあったのだが、素通りするのも勿体無かったので再訪してみることにした。

この街の史跡巡りは巡回バス『るんるん』を400円の1日フリー乗車券で使うのがお得。ただ、最初に目指す場所はバスのタイミングが悪く、歩いて行った方が早かった。
まず訪れたのが、毛越寺。850年に円仁が創建し、奥州藤原氏によって多くの伽藍が造営されたという古刹だ。

毛越寺
自然美と伽藍の見事な調和。
毛越寺の庭園
毛越寺は広い池のある庭園も見どころだ。

そして、『るんるん』に乗って、この街のシンボルである中尊寺へ。これもまた、毛越寺と同時期に築かれ、奥州藤原氏の歴史を見つめてきた証人だ。その中でも一番の見どころまでは、緩やかな山道を上った一番奥の方にある。
中尊寺入り口
その途中にも幾つもの堂が建っているが、いずれも当時の雰囲気を残す、味のある木造建築だ。

中尊寺弁慶堂
平泉で絶命した武蔵坊弁慶を祀った弁慶堂。
中尊寺観音堂
観音堂。

そして、参道の入り口から10分ほど歩いた場所にある、一際立派な寺院が中尊寺の本堂(明治時代再建)だ。
中尊寺本堂
ご本尊は丈六仏(お釈迦様の身の丈が1丈6尺=約4.85mあったという伝承からその大きさで造られた仏像)の阿弥陀如来像。
中尊寺本堂ご本尊

しかし、中尊寺一番の見どころは本堂ではない。その更に奥にある有料エリアこそが、中尊寺のメインだ。
中尊寺金色堂
金色堂
表から見えるのは、コンクリート製の「覆堂」のみで、金色堂はその中で大事に保存されており、内部は写真撮影も認められていない。それだけにきっちりと目に記憶に焼き付けようとしっかりと拝んできた。
この金色堂を見るのはこれで2度目。金色のまばゆさに嘆息したのは以前も今回も同じ。奥州藤原氏の栄華を物語る、平泉随一の歴史遺産であることは疑いない。
しかし今回は、以前には無かった視点があった。
それは、仏様を敬うという心である。
前回ここに来た時、私は信心の無い無宗教だった。しかし2007年のチベット訪問以来、私の内側に仏教への信仰心が芽生え、仏様に対する敬意を育んできた。今回この金色堂に対面した私は、まばゆい金色に目を奪われるのと同時に、いやそれ以上に、お堂の中に並び立つ金色の仏像の柔和なお顔と優しげなたたずまいにもまた心引かれたのだった。その柔和さと優しげなたたずまいは、当時この地でも信じられていた浄土信仰を反映したものなのだろう。

中尊寺の丘を下って、再び『るんるん』に乗り次の目的地へ。バスを降りて階段を上がった先には、北上川が奥州の大地に横たわっている。
北上川
北上川を見下ろす堤の上にあるのが、義経堂。ここはかつて奥州藤原氏の居所・衣川館があった地で、兄である源頼朝と不和となって逃れてきた源義経がここで果てている。その後、江戸時代に伊達藩によって建てられたのがこの堂だ。
義経堂
堂内には、
義経堂義経像
堂内には義経の木像が安置されている。「平家物語」では義経が不細工であったかのような平家方の台詞もあったようだが、なかなかの男前に彫られている。

そして、その近くには松尾芭蕉の句碑がある。そこに彫られている句こそ、あの有名な
義経堂芭蕉句碑
夏草や 兵どもが 夢の跡
この地で栄華を極めながら滅んでいった奥州藤原氏と、平家討伐で名を上げながら散っていった義経に思い詠った名句である。私が訪れたのはまだ春だったが、芭蕉もまた北上川の見えるこの地で、この草生い茂る風景を見ながら歴史に思いを馳せていたのだろう。

それにしても、ゴールデンウィークの平泉はもっと混んでいると思っていたのだが、それ程でもなかった。それどころか、史跡を巡る周回バス『るんるん』の乗客が私1人だけという場面もあった。
震災から5年――「観光で東北支援を」ということが言われているが、まだ観光客の足は戻せていないのかもしれない、と思った。

これで一応、今回の旅の目的は達成。あとは自宅のある川崎まで下るばかりだ。
できるだけ鈍行で下りたいと思い、平泉から新白河まで使うことができるフリーきっぷ「小さな旅ホリデー・パス」で行けるところまで行くことにする。
松島
途中、宮城県の景勝地・松島を通過。

仙台駅
仙台駅でちょっと乗り継ぎ待ち。
仙台みやげ
仙台のお土産。これで宮城も立ち寄ったことにしよう。

福島駅でも乗り継ぎがあったが、待ち時間が短く買い物も満足にできなかった。

郡山まで来たところで、時刻は20時半。頑張れば川崎まで鈍行で帰ることも可能だったが、翌日仕事だったこともあり、ここで鈍行にこだわり続けるのは断念。郡山から大宮までだけ、新幹線を利用した。
22時50分、川崎駅に到着。青森、岩手を中心に、秋田、宮城にも足跡を残した足掛け1週間の旅が終わった。

今回は、青森が初めての訪問だったこともあって、青森で随分時間を使ってしまったが、東北エリアで未到達の県はあとは山形だけだ。
次の機会には、山形を絡めて再び鈍行での東北縦断に挑戦してみるかな?

2016年GW 花巻

午前中は、新花巻駅近くの宿から徒歩圏内の場所を訪れる。

花巻と言えば、彼の地で生まれ育った宮沢賢治。新花巻駅前にも「セロ弾きのゴーシュ」のレリーフがあったりもした。
「セロ弾きのゴーシュ」のレリーフが

新花巻駅から国道456線に出て、釜石線の踏切を渡り、釜石自動車道をくぐり、歩くこと約20分。賢治ゆかりの施設が集まったエリアに行き着く。目指す場所は、ここから更に階段を上った先の丘(胡四王山)の上だ。

宮沢賢治記念館への階段
階段には1段1段に平仮名が書かれていて、続けて読むと賢治の詩の代表作「雨ニモマケズ」になる。
山猫軒
階段を上った先にはまず、「注文の多い料理店」をモチーフにしたレストラン「山猫軒」がある。

その先にあるのが、今回の目的地である宮沢賢治記念館だ。
宮沢賢治記念館
この記念館は賢治の関心の対象であった各方面の科学・芸術にスポットを当てたものだった。童話的なファンタジーの世界という雰囲気とは違うが、彼の博識ぶりと、その知識がいかに童話にちりばめられているかを知ることができる。
そんな中、作家としての賢治の作業を垣間見ることができたのが、「銀河鉄道の夜」ができるまでを追った展示だった。構想から作品の完成に至るまでいかに紆余曲折があったかを窺い知ることができ、文学作品を作るということがいかに大変な作業なのかがよく分かる。
宮沢賢治記念館から望む花巻の街
記念館のバルコニーからは、花巻の街を一望することができた。

先ほど上ってきた階段を下りてすぐの場所にあるのが、宮沢賢治童話村だ。幾つものコテージで、賢治の童話にも垣間見える花巻の自然に関する展示が行われているが、ここの売りは何と言っても「賢治の学校」だ。「ファンタジックホール」「宇宙」「天空」「大地」「水」の5つのゾーンで、賢治の童話の仮想世界「イーハトーブ」を幻想的に感じることができる。

このエリアには他にも花巻市博物館があったが、時間の都合でパス。花巻を後にして次の目的地へと向かう。

ところが、新花巻からはJR釜石線で花巻に出て、そこから東北本線に乗り継ぐ予定だったが、こともあろうに釜石線が強風(花巻は全く問題なかったのだが)のため運転見合わせとなってしまっていた。バスで花巻まで移動しようかと思いもしたがバスの本数が思いの外少ない。結局、東北新幹線と東北本線が交わる北上まで新幹線で行くことに――できれば今回は鈍行を使い続けたかったのに、どこかで吹き荒れている風がうらめしい。

2016年GW 遠野物語

宮古からバスで盛岡に到着し、JR東北本線から釜石線へと乗り入れる列車に乗車。

SL銀河号
13時すぎ、こんな素敵な列車(SL銀河号)が出発を待つ駅に到着した。
遠野駅
辿り着いたのは、カッパ伝説もある民話の里…

遠野である。
駅に着いた時には生憎の雨だったが、雨ガッパ装備でカッパ伝説のある街を巡るのも一興(笑)と、駅前でレンタサイクルを借りる。やはりこの天気だと借りる人は少なく、この日は私で2人目だったという。しかし、雨はすぐにやんでくれて、雨ガッパはすぐにお役御免となった。

まず訪れたのが、駅から歩いてでも行ける場所にある、とおの物語の館。遠野ならではの民話の世界に浸るには欠かせない場所である。
とおの物語の館

とおの物語の館
座敷童子、河童淵、天狗など、遠野を代表する昔話の数々が、文字やイラスト、像や影絵などで分かりやすく解説されている。
とおの物語の館
こちらの劇場・遠野座では、地元の語り部が実際に昔話を語ってくれる。

遠野座での昔話の語りは1回20分ほど。タイミングが合えば欠かさず聞いておきたい。
上品な高齢の女性が、柔らかく、ユーモラスな口調で
「むがす あったずもな」
で語り始め、
「どんどはれ」
で話を結ぶ。全編遠野弁だが、そこは同じ日本語。だいたいのあらすじは逃すことなく聴くことができた。
今回は、有名な「河童淵」のお話の他、「オシラサマ」、動物たちが海の果てを見ようとリレーで旅をするお話、蟻のお腹にくびれができたお話などを聴かせていただいた。

次の目的に向かって自転車を走らせていると、道端に…
「かっぱ注意」の標識
「かっぱ注意」の標識…
どうやら、震災からの復興を目指して結成された地元の団体「遠野かっぱ工事隊」が設置したものらしい。「観光で復興を」という心意気が伝わってくる。

その標識から20mほどの交差点を左折し、更に300mほど北へ進む。ここで自転車を下りて遊歩道を歩いた先にあったのが。
カッパ淵
カッパ淵
なるほど。先ほどの標識は「カッパの棲み家が近いですよ」という警告だった訳だ(笑)
極々狭くて浅い川なのだが、林に覆われて日陰になっており、妖怪が出ると言われると「かもしれないな」と思わず感じてしまう。

カッパ淵
カッパ淵は釣り竿が置かれていて、釣り糸の先にはカッパの好物といわれるキュウリ(模型?)。
ちなみに「名人専用」らしい。うかつに触るとカッパに水に引き込まれるということだろうか? 浅い川だが、強い力でねじ伏せられたら溺死させることは十分に可能だろうから、ご注意を(笑)

続いて、カッパ淵の近くにある伝承園へ。「曲り家」などの遠野の伝統的家屋が立ち並ぶ中で民話の雰囲気を楽しむことができる。ここでも、語り部から民話を聴くことができる(但し要予約)。
伝承園
菊池家曲り家」に入り、奥に進むと「御蚕神堂オシラ堂)」という祠に繋がる。先ほど物語の館でも聴いた民話「オシラサマ」ゆかりの場所だという。
「オシラサマ」は遠野の民話でも有名な話だそうだが、私は初めて聞いた。大体こんな話だ。

御蚕神堂
「むがす あったずもな」

ある農家の娘が、馬と恋に落ちる。娘の父親はこれに怒り、馬を桑の木につるして殺してしまう。娘は馬の死体に泣きすがって離れようとせず、父親は更に怒って馬の首を切り落としてしまう。すると、馬の首が娘を乗せたまま昇天してしまい、娘はそれきり戻ってこなかった。
父は悔いて、馬をつるした桑の木を削って馬と娘の像を作り、赤い布を着せて祀ったという。

「どんどはれ」

御蚕神堂の真ん中にはその物語に登場する桑の木が立ち、壁際には、来訪者の願い事が書かれた布の服を着た像「オシラサマ」がびっしりと並んでる。
悲しい物語だが、娘の優しい心や、父親が最後に見せた慈しみの念に心打たれる。

更に北へ自転車を進めること5.5km。最後に訪れしは遠野ふるさと村だ。先ほど訪れた伝承園にもあった「曲り家」が幾つも並ぶ、日本の古き良き原風景が見られる場所である。
遠野ふるさと村
曲り家は、母屋と馬屋がL字形に繋がって一体になった建築様式だ。この村の馬屋ではリアルに馬が飼われている。

遠野ふるさと村の馬
「オシラサマ」の物語で娘が恋をした馬もこんな感じだったのだろうか。
遠野ふるさと村の菜の花の風景
菜の花が真っ盛り。茅葺屋根の家と重ねて見ると実に日本的だ。

遠野の伝統を感じることができる素敵な場所である。但し、民話の要素は全く無いので、遠野に民話を求めて来る人には肩透かしに感じられるかもしれない。

遠野ふるさと村からはひたすら自転車をこいで遠野駅へとひた走る。自転車を返却し、ぎりぎりのタイミングで予定していた列車に乗ることができた。

新花巻に到着したところで、本日の旅は終了。駅近くのゲストハウスにチェックインして一息つく。
食事時になって、新幹線の駅まで行けば食べる所ぐらいいろいろあるだろうと思って新花巻駅まで行ったのだが…

立ち食いそばの店が1軒あるだけ

駅前のわんこそば屋も6時前に閉店という寂しさ。
何とか駅から10分ぐらいの店で東北名物の冷麺を頂くことができたが、ここが開いてなかったらせっかくの旅のディナーがコンビニ飯になってしまうところだった。
宿の主人によると、開業当初の30年ほど前は「新幹線駅ができていずれ発展する」と考えて進出してきた人も多かったが、発展しないまま今に至っているという。

2016年GW 三陸鉄道北リアス線

昨日、JRの駅舎から下り立った久慈の街を、今度は隣接する別の駅舎から旅立つ。
 三陸鉄道久慈駅
あのドラマを見ていた人なら、↑の写真ですぐに分かることだろう。
三陸鉄道
北三陸鉄道
――いや、それはドラマでの呼び名。正しくは「三陸鉄道北リアス線」という。
東日本大震災でダメージを受けたが、2014年に全線開通を為し遂げた「復興のシンボル」たる鉄道だ。

堀内駅
ドラマにもよく出てきた「堀内駅」。(ドラマでは『小袖浜』の名前で呼ばれ、アキとユイが青春をぶちまけるシーンで使われた)
三陸鉄道
単線なので、すれ違いは駅で。

ビューポイントでは速度を落としてくれたりもする。
(↓の写真は大沢橋梁から)
大沢橋梁からの眺め

終点の宮古には1時間半強で到着した。

景色も良く、ゆったりとしたいい列車だった。都会に住んでいる者としてはいい癒しになる。
しかし、本当に癒されるべきはよそ者以上に、この路線を日常の足として使っている地元の人たちである。北も南も含め、全線開通は本当に朗報だったことだろう。

しかし一方で、宮古―釜石間のJR山田線は、震災以来未だ開通には至っていない。次の目的地は本来、この山田線で南下するのが便利なのだが、一旦盛岡まで出なければならない。しかしこの時、盛岡方面に向かう線路も2015年11月の土砂流入のため寸断されてしまっていた。盛岡まではバスで行くことができたが、一日も早くこの地域に、この路線に「復興」がなされることを願ってやまない。

後日談
宮古―釜石間の鉄道は2019年、三陸鉄道に移管されて復旧した。

閉伊川
雨模様の中、バスで盛岡へ。車窓から見える閉伊川の景色に癒やされる。

盛岡駅には定時に到着。余裕を持って目標の電車に乗ることができ、この日一番の目的地へと旅を進めた。

2016年GW 十和田湖、久慈

早朝5時前に目が覚め、6時開始の十和田湖ガイドツアーに参加。この湖の生い立ちなどを解説してもらいつつ、昨日訪れてどんよりしていた乙女の像などを訪問。
十和田湖
朝のうちは青空もあり、乙女の像もいい感じで撮ることができた。
乙女の像

さて、天気もいいことだし、宿の自転車(ママチャリ)を借りてサイクリングに出かけることにした。
十和田湖には御倉半島と中山半島という2つの半島が並んで伸びている。これが両方見えるポイントが無いかと、秋田県側の湖畔道をペダルをこぐが、途中かなりのアップダウンがあり、変速機の無いママチャリでは歩いて押さなければ上れない坂もあった。
鉛山という場所から自転車を下りて「十和田湖西湖畔遊歩道」を歩く。小さな半島の先端にある大川岱まで行くと、
御倉半島と中山半島の見える十和田湖
見事に、広々と開けた湖の向こうに、重なるようにして横たわる御倉半島(奥)と中山半島
(手前)を同時に見ることができた。
鉛山から上った場所にある白雲亭からは湖やこれらの半島を俯瞰することができるらしいが、残念ながらその時間は無かった。次の予定に間に合うよう、来た道を自転車で引き返す。
桜と十和田湖
帰り道で見かけた、桜と十和田湖の風景。

次に向かうは八戸だが、折角だから十和田~子ノ口間は遊覧船を利用することにした。
遊覧船
先ほどまでいた「西湖」では半島に阻まれて湖全体を感じることができなかったが、これでやっと、四方に湖全体を感じることができた。
十和田湖

子ノ口で下船して、昼食後、バスに乗車。再び奥入瀬渓流を横目に、今度は山を下る。
奥入瀬渓流

八戸は乗り継ぎのみ。JR八戸線に乗車して、青森とはお別れ。岩手県に入る。
下車した終点駅は、久慈。
久慈駅前
ドラマ「あまちゃん」の舞台となった街であり、同ドラマをモチーフにした絵を描いたシャッター、いわゆる「あま絵シャッターアート」もあちこちで見られる。

ここに来たら、ウニを食べない訳にはいかないだろう。山海里という店で、「あまちゃん」の中でも登場した「まめぶ」と一緒に頂いた。
まめぶと生うに

2016年GW 奥入瀬渓流、十和田湖

早朝。名残を惜しむように弘前城を再訪した後、出発。
一端新青森まで戻り、そこからバスで南の山奥へと向かう。
八甲田山
八甲田山を横目にバスはどんどん山奥へと分け入り、奥入瀬渓流へと入る。
当初、私はこのバスの終点にまで行くことしか考えていなかったが、バスに乗っている間に沿線にこの場所があることを知り、時間に余裕があったこともあってにわかに立ち寄りたく思い始めた。
幸い、今回私はこの路線のバスに2日間何度でも乗り降りできるチケットを買っていたので、バス料金を気にする必要もない。私は馬門岩というバス停で下車し、バックパックを背負ったまま渓流沿いの遊歩道を歩き出した。
奥入瀬渓流
思い立ってよかった。渓流の、時に穏やかで、時に激しい、心地よい響きが私の心を癒してくれた。

奥入瀬渓流・雲井の滝
時には滝もあり(↑は雲井の滝)、
奥入瀬渓流
時には倒木もある。

いろいろなものをひっくるめて、これが“自然”、これが奥入瀬渓流なのだ。

そして、一番のインパクトだったのが、
銚子大滝
高さ7メートル、幅20メートルの銚子大滝。轟音とともにすさまじい水量がなだれ落ちている。

更に上流で足を進めると、目の前に橋が見えてきた。その橋の下から向こうを見ると、細い川が急激に広くなっているのが分かる――いや、橋の向こうは川ではない。
[間違いない!]
遊歩道から橋の上に上がった私の眼前にあったのは…
十和田湖
十和田湖である。

「おぉぉぉぉ!!」
私のテンションは頂点に達していた。きっとそれは、自分の足で歩いて来てこの湖を眼前に見たからだろう。バスに乗ったまま車窓越しにこの風景を見ても、きっとここまで感動しなかったに違いない。

しかし…
天気が生憎だった。空は分厚い雲。風は強く、湖面は激しく波打っている。先ほどまで渓流で感じていた自然の“優しさ”とは裏腹に、そこにあったのは自然の“厳しさ”だった。
湖畔の宿に入って暫く待っていたが、今度は雨まで降ってきた。雨が止むのを待って外出したが、風の強さは相変わらず。体感温度も、冬に戻ったかのような寒さだ。
十和田湖 乙女の像
雨が止んだすきに、取りあえず十和田湖のシンボル的存在である、高村光太郎の「乙女の像」を見に出かけた。美しく、心和む彫刻なのだが、やはり曇天ではなく晴れた空の下で見たかった。

それでも、夕暮れ時には辛うじて西の空が少しだけ赤く染まってくれた。
明日はもっといい天気になってくれれば…
夕暮れの十和田湖
ちなみに、↑の写真の手前に川が写っているが、実はこの細い川が青森と秋田の県境なのである。
そう。十和田湖は青森と秋田の2県にまたがっているのだ。上記の写真で右側が青森、左側が秋田、ということで、この写真を撮った場所は秋田県である。
今回の旅では秋田県は予定に入っていなかったのだが、思いがけず秋田に足跡を残すことができた。

2016年GW 弘前

新青森から、列車で弘前へ移動。
道中、車内から富士山にも似た円錐形の見事な山が見えた。「津軽富士」とも呼ばれる弘前の名山・岩木山である。残念ながら、頂上に雲がかかっていて全貌を見ることはできなかった。

岩木山

ここまで北に来ると、桜前線の到達が南の方と比べてかなり遅くなる。ここ弘前でも、5月5日までを会期に「弘前さくらまつり」が行われている。
弘前城のある弘前公園に向かう道中でも、お堀の桜が目を楽しませてくれた。

弘前城のお堀の桜

何でも、前日の気温が30度にもなったということで、ソメイヨシノは9割方、葉桜になってしまっていた。とはいえ、しぶとく花を残している木もあるし、八重桜あたりはまさに今が見頃だった。

弘前城の桜

弘前城の八重桜

弘前城は津軽氏によって建てられた江戸時代の天守閣や櫓が現存する重要文化財だが、修理が必要であることが判明し、昨年(2015年)、天守閣を丸ごとジャッキアップして「曳家」を行い、3か月かけて35m離れた仮天守台に移動させられたという。何ともスケールの大きな話だ。そう言えば、通常天守閣というと石垣の上に築かれているが、この時見た天守閣は第1層の白壁がそのまま地面に繋がっているかのようだった。

追手門からちょっと城外に出てみる。
お堀の隅の方に散った桜の花びらがたまって、桜の絨毯のようになっていた。

桜の絨毯

弘前城から南へ15分ほど歩いた所に、禅林街という場所がある。両側に杉並木が植えられた一直線の道路沿いは全てが仏教寺院という、寺社好きにはうってつけのヒーリングスポットだ。
(禅林街のほか、南の方に『新寺町寺院街』という場所もある)
禅林街
禅林街の一番奥にたたずむのが、長勝寺。何やら随分年季が入っているが、それもそのはず。江戸時代初期に創建されたという古刹なのである。

長勝寺

更に″歴史”を追い求めて、今度は弘前城の北へ。お堀から一筋外の仲町伝統的建造物群保存地区を訪れる。武家屋敷のような古い建物がずらりと並んだ――光景を想像して行ったのだが、そういった建物は数件しか無い。
仲町伝統的建造物群保存地区

近くの「津軽藩ねぶた村」で津軽そばとイクラ丼の夕食をとった後、再び弘前城へ。普段なら17時になると閉ざされる(有料区域)のだが、「さくらまつり」の時期は21時まで開いているのである。
この時間にここへ来たお目当ては、勿論…
弘前城の夜桜
夜桜。
夜空の黒に、天守閣の壁の白と、桜のピンクや白が映える。

2016年GW 三内丸山遺跡

青森県むつ市で朝を迎え、この日はまず、再び青森市へ戻る。

先日北海道まで新幹線が開通したばかりの新青森駅からバス「ねぶたん号」で、三内丸山遺跡へと向かう。
三内丸山遺跡は青森市西部に見つかった縄文時代の遺跡で、現在では幾つかの当時の建物が再現されている。
三内丸山遺跡
中でも目に留まるのが、大型掘立柱建物跡。丸太の枠組みだけの建物だが、その大きさが半端ではない。柱の1本1本も、大人3人が手を広げてようやく囲むことができるくらいに太い。高さも15m近くあるが、このくらい太い柱を使うのだったらこのくらいの高さか、と推測したのだろう。これだけ高いとなると、見張りとか、通信か何かに用いられていたのだろうか。
大型掘立柱建物跡
その背後に写っている大型竪穴式住居跡もかなりの大きさだ。中に入ることができたが、ちょっとしたイベントを開催できる程の広さがある。

施設内には博物館(さんまるミュージアム)もあり、

板状土偶
板状土偶
縄文ポシェット
縄文ポシェット

など、数々の遺物が展示されている。これらの遺物が全て写真撮影OK(フラッシュは駄目)というのが、何とも大盤振る舞い。
しかし、大盤振る舞いなのはそれだけではない。
何とこの遺跡、
そもそもが、
入場無料なのである。
500円ぐらい取っても全然おかしくないクオリティなのだから、遺跡維持のためにも入場料取ってもいいと思うのだが…

後日談
三内丸山遺跡は2019年4月より有料となった。

この遺跡の近くには青森市立美術館もある。特に展示には興味がわかなかったので入場はしなかったが…
この美術館の一角にある、
あおもり犬
あおもり犬という、この物体…
いかにもやる気の無さそうな表情なのに、その大きさと真っ白な色からか、この日最大の(滑稽という意味での)インパクトだった。

2016年GW むつ、恐山

青森から、青い森鉄道とJR大湊線(観光列車『リゾートあすなろ下北』利用)を乗り継いで、本州最北端の駅であるむつ市の下北駅に到着。

青い森鉄道
青い森鉄道
リゾートあすなろ下北
リゾートあすなろ下北

予定では、一旦むつ市中心部の宿に入って、それから次の目的地へと向かおうと思っていたのだが、列車を降りるとすぐにその「次の目的地」へ向かうバスがまさに出ようとしていた。
ここは予定変更。大きな荷物はどこかで預かってもらうことにして、私はその場所へ直行することにした。

バスに揺られて約35分。視界に大きな湖(宇曽利湖)が開けるとともに、突然硫黄の臭いがバスの車内まで伝わってきた。
その硫黄のせいだろうか。湖も、水の色なのか湖底の色なのか分からないが、青ではなく黄色がかった色をしている。
宇曽利湖

到着した場所は、恐山だった。日本有数の霊場であり、霊を呼び寄せてその言葉を伝えるという「口寄せ」を行う巫女・イタコで有名な地だ。
恐山山門

本堂や塔婆堂、地蔵殿などの建物が立ち並ぶエリアを過ぎると…

恐山の塔婆堂
塔婆堂
恐山の地蔵殿
地蔵殿

ごつごつとした岩場、硫黄臭さ、湧き出る温泉、硫黄に染まった湖底で黄色くなった湖――それは「地獄」という言葉を聞いたらこういう光景を思い浮かべるだろう、という典型だった。
恐山の岩場

恐山 硫黄の川
硫黄が流れた跡か。黄色い「川」が見られた。
恐山 無間地獄
実際に、「○○地獄」と名付けられた場所が幾つもある。
恐山 鎮魂の観音像
鎮魂のお地蔵様や観音様等もあちこちに。
恐山 鎮魂の風車
幼子の魂を鎮める風車。

歩いているうちに、向こう岸に立派な山々が並ぶ宇曽利山湖のほとりにたどり着いた。
宇曽利山湖

湖畔には「震災慰霊塔」があった。東北の震災の折に造られたのだろうが、最近でも熊本で大震災があったばかりだ。それに、私には他に、焼身抗議をして死んでいったチベット人という「鎮魂」の対象があった。震災によって亡くなった方々、侵略によって亡くなった方々――私はそれらの人々のために、「鎮魂の鐘」と「希望の鐘」を順に鳴らした。
恐山 震災慰霊塔

霊場を少し離れた場所には、「三途の川」と呼ばれれる場所があり、木製の橋が架けられていた。ここを渡るとそこは霊の世界、ということだ。
恐山 三途の川

さすがにここは「楽しむ」という感覚ではなかった。
写真を撮るにしても、仏様やお地蔵様への敬意と、死者への畏敬の念を忘れないように心がけた。

2016年GW 青森市

今年のゴールデンウィーク(GW)の目的地は…

青森駅
青森

自分にとっての未到達県を1つ塗りつぶそうという思いと、震災の傷跡まだ癒えぬ東北に元気を、という思いから、昨年の福島に続いての東北訪問となった。

前日の夜に仕事を終えた後、飛行機で夜9時半に青森入り。一夜明けてこの日、本格的な東北巡りの開始となった。

朝の散歩がてら、
青森港
青森港近くの海辺をぶらり。ここから見える海は陸奥湾だ。

暫く歩いていると、白と黄色の船体の八甲田丸に近づいた。列車すらその胎内に収めて津軽海峡を往復したかつての青函連絡船だが、青函トンネルの開通でその役目を終え、今はメモリアルシップとしてその船内が公開されている。
八甲田丸

当時の情景を伝える模型(1)
当時の情景を伝える模型(1)
当時の情景を伝える模型(2)
当時の情景を伝える模型(2)
操舵室でちょっとクルー気分
操舵室でちょっとクルー気分
デッキからの風景
デッキからの風景
八甲田丸内部の列車
船の底には、何台もの鉄道車両
八甲田丸の機関部分
船の心臓部である機関部分

いや、貴重なものを見せてもらった。青函連絡船の歴史や船の仕組みなど、いい“学び”となった。
それにしても、外目からは気づきにくかったが、列車の車両を幾つも収納できるくらい大きかったんだ。

八甲田丸の近くには、青森名産のリンゴ関連商品などを売っているA-FACTORYや、ねぶたの家 ワ・ラッセもある。

A-FACTORY
A-FACTORY
ねぶたの家 ワ・ラッセ
ねぶたの家 ワ・ラッセ

ワ・ラッセはその名の通り、青森名物のねぶた祭りの博物館になっていて、照明を落とした管内には勇壮なねぶたが幾つも幻想的に浮かび上がっていた。
ねぶた
これが祭りの日には夜の青森の街を練り歩くと思うと、またテンションが上がる。

このあたりを回っているうちに、いい時間になった。私は、これらの施設と隣接する青森駅に向かい、次の目的地へ向かう列車に乗り込んだ。

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